水鳥や提灯遠き西の京 蕪村。五七五のこれだけの言葉からどれほどの想像をすればよいのか。水鳥が飛び立つ羽音にはっとして顔を上げると辺りに夜の帷(とばり)が降りていて、向こうに見えるあの提灯の明かりは西の京か。あるいは、不意に灯った提灯の明かりに驚いて水鳥が飛び立った、西の京の方角に。『御伽草子集』の「天稚彦草子(あめわかひこそうし)」に西の京が出て来る。「天稚彦草子」はこのような話である。「昔、長者の家の前に、女、物洗ひてありける。大きなる蛇(くちなは)出できて言ふやう、「わが言はんこと聞きてんや。聞かぬものならば、押し巻きてん」と言へば、女、「何事にか侍らん。身に耐へんほどのことは、いかでか聞き侍らでは」と言へば、蛇口より文を吐き出だして、「この内の長者に、この文を取らせよ」と言ふ。持ちて往ぬ。やがて開けて見るに、「三人の娘賜(た)べ。取らせずば、父をも母をも取り殺してん。その設けの屋には、そこそこの池の前に釣殿をして、十七間の家を作りたるに、わが身はそれにはばかるぞ」と言ひたり。これを父母見て、泣くことかぎりなし。大娘を呼びて言へば、「あな思ひかけず、死ぬる色なりとも、さることはし候はじ」と言ふ。中娘に言へば、それも同じことに言ふ。三の娘は、一の愛(かな)し子にてありければ、泣く泣く呼びて言へば、「父母取らせんよりは、われこそいかにもならめ」と言ふ。あはれさかぎりなくて、泣く泣く出だし立つ。蛇の言ひたりし池の前に家を造りて、出で往ぬ。ただ一人据ゑて、人々帰りぬ。亥の時ばかりなるらんと思ふほどに、風さと吹きて、雨はらはらと降り、雷、稲妻ひらひらとして、沖中より波いと高く立つやうに見ゆれば、姫君、生きたるか死にたるかと思ひて、恐ろしさせん方なく、あるかなきかにて居たるに、十七間にはばかるほどの蛇来て言ふやう、「われを恐ろしと思ふことなかれ。もし刀や持ちたる。わが頭斬れ」と言へば、恐ろしさ、悲しけれども、爪切刀にて易く斬れぬ。直衣(なほし)着たる男の、まことに美しきが走り出でて、皮をばかいまとひて、小唐櫃(こからびつ)に入りて、二人臥しぬ。恐ろしさも忘れて、語らひ臥しぬ。かくあひ思ひて住むほどに、よろづの物多くてありける所なりければ、取り出だして、無き物なく、楽しきことかぎりなし。従者(ずんざ)、眷属(けんぞく)、多くあるほどに、この男言ふやう、「われは、まことには海龍王にてありしが、また、空にも通ふことのあり。このほどに行くべきことあれば、明日明後日ばかり、空へ昇りなんずるぞ。七日過ぎて帰らんずるぞ。その心ならず帰らぬことあらば、二七日を待て。それになほ遅くは、三七日を待て。それに来ずは、ながく来まじきと思へ」と。言へば、「さらば、いかがせんずる」と言へば、男言ふやう、「西の京に女あり。一夜(ひとよ)ひさごといふ物持ちたり。それに物を取らせて昇れ。それも大事にて、昇り得んこと難からん。もし、昇りたらば、道に逢はん物に、天稚御子(あめわかみこ)のおはする所は、いづくぞと問ひて来よ」と言ふ。「この物入りたる唐櫃をば、あなかしこ、いかなりとも開くな、これだに開けたらば、え帰り来まじきぞ」とて空へ昇りぬ。さて姉娘どもこの家に来て、めでたきことを見んとて来あひたる。かく楽しうておはしましけるに、「われら果報の悪くて、恐ろしとも思ひけるぞ」など言ひつつ、よろづの物ども開けつつ見るに、この「な開けそ」と言ひし唐櫃を「開けよ、見ん見ん」と言ひあひたるに、「その鍵知らず」と言へば、「かまへて鍵取り出でよ。など隠すぞ」と、姉どもこそぐりけるに、鍵を袴の腰に、結ひつけたりけるが、几帳に当りて、音のしければ、「など、くは有りけるは」と言ひて、その唐櫃を、左右なく開けてけり。物はなくて、煙空へ昇りぬ。かくて姉ども帰りぬ。三七日待てども、見えざりければ、言ひしままに西の京へ行きて、女に会ひて、物ども取らせ、一夜ひさごに乗りて、空へ昇らんと思ふに、行方なく聞きなし給ひて、親たちの嘆き給はんことを思ふに、いと悲しく、「今は故郷見るまじきぞかし」と、返り見のみせられて、逢ふこともいさしら雲の中空にただよひぬべき身をいかにせん。空に昇りて行くほどに、白き狩衣着て、みめよき男逢ひたるに、「天稚彦のおはします所はいづくぞ」と問へば、「われは知らず。これより後に逢ひたらん人に問へ」と言ひて行くに、「われは誰そ」と言へば、「ゆふつづ」と言ふ。また、箒もちたる人出で来たれば、前のやうに問ふに、「われは知らず。この後逢はん人に問へ。われは箒星となん申す」言ひて過ぎぬ。また、あまた人逢ひたり。また前のやうに問へば、これも前のやうに言ひて、「われはすばる星」とて過ぎぬ。かくのみあらば、尋ねあひきこえんこともいかがと思ふに、中空なる心地、いみじく心ぼそし。さてしもあるべきならねば、なほ行くほどに、めでたき玉の輿に乗りたる人に逢ひたり。またこれも同じことに問へば、「これより奥へ行かんほどに、瑠璃の地に玉の屋あり。それに行きて、天稚御子に物申さん」と教へ給へば、そのままに行きて尋ぬ。天稚彦に尋ねあひたてまつりぬ。うはの空に迷ひ出でつる心の中など、語り給ふに、いとあはれにて、「日頃のいぶせさ、わりなかりつるにも、契りきこえしままに尋ね給ふらんと、待ちきこえて、慰み侍りつるに、同じ心におぼしけるこそ、あはれなれ」とて、さまざまに契り語らひ給ふも、げに浅からざりける御契りなんめり。「さても心苦しきことのあるべきをば、いかがし侍るべき。父にて侍る人は鬼にて侍る。かくておはすると聞きては、いかがしきこえんと、わびしき」とのたまふに、いとあさましけれど、「よしや、さまざま心つくしなりける身の契りなれば、それもさるべきにこそ。ここを憂しとても、また立ち帰るべきならねば、あるにまかせて」とおぼしけり。かくても日数ふるほどに、この親来たり、女をば脇息になして、うちかかりぬ。まことに目も当てられぬ気色なり。「娑婆(しやば)の人の香こそすれ。しはら臭や」とて立ちぬ。その後も、たびたび来りけれども、扇枕などにしなしつつ、まぎらはしてありふるに、さや心得たりけん、足音もせず、みそかにふと来たり。昼寝をしたりければ、え隠さで見えぬ。「これは誰そ」と言ふに、今は隠すべきやうならねば、ありのままに言ふ。「さてはわが嫁にこそ。使ふ者も侍らぬに、賜はりて使はん」と言ふに、「さればこそ」と、いと悲し。惜しむべきならねば、やりぬ。具して行きて言ふやう、「野に飼ふ牛数千あり。それを朝夕に飼へ。昼は野へ出だし、夜は牛屋へ入れよ」と言ふ。天稚御子に、「これをばいかがすべき」と言ひあはすれば、わが袖を解きて取らせて、「天稚御子の袖々、と言ひて振れ」と教へければ、そのままに振りければ、つとめては野へ出で、ゆふさりは牛屋へ入る。千頭の牛なびきたり。「かくこそ神通なれ」と鬼言ひけり。「わが倉にある米千穀、ただいまのほどに異倉へ運びわたせ。一粒も落すな」と言ふほどに、また袖を振りて、「袖々」と言へば、蟻いくらもいくらも出で来て、一時に運びぬ。鬼これを見て、算をおきて、一粒足らずとて、悪しげなる気色にて、「たしかに求め出だせ」と言ふ。顔を見るに、今はかくと見えて、恐ろしさ言ふばかりなし。「尋ねてこそ見侍らめ」とて求むるほどに、腰の折れたる蟻の、え運ばであるを見つけて、うれしくて持ちて行きぬ。また、「百足(むかで)の倉にこめよ」と言ひて、鰭板(はたいた)に鉄(くろがね)押してあり。百足といへば常にあらず。一尺余ばかりなるが、四五千ばかり集ひて、口を開きて、食はんとするに、目もくるる心地しながら、また、この袖を振りて、「天幼稚彦の袖々」と言へば、隅へ集ひて、そばへも寄らず。七日過ぎて開けて見れば、事なくてあり。また、蛇の城にこめぬ。それも、前のままにしたれば、蛇一つも寄り来ず。また七日過ぎて見れば、ただ同じやうにて生きたり。し扱ひかねけん。「しかるべきにこそあるらめ、もとのやうに住み逢はんことは月に一度ぞ」と言ひけるを、女房悪しく聞きて、「年に一度とおほせられるるか」と言へば、「さらば年に一度ぞ」とて、苽(こ)をもちて、投げ打ちに打ちたりけるが、天の川となりて、七夕、彦星とて、年に一度、七月七日に逢ふなり。」昔、ある金持ちの家の庭先でこの家の下女が洗濯をしていると、叢から不意に大蛇が目の前に現れ、女にこんなことを言った。「必ず私の言うことを聞いてくれるか。そうしてくれなければお前に巻きついて締め上げるぞ」それを聞いて女はこう応えた、「どんなことでございますか。私に出来ることでしたら、どんなことでもお聞きしますとも」それを聞いた大蛇は突然口から一枚の書付を吐き出し、「この家の主にこの書付を手渡してくれ」と言う。女はすぐにその場を離れ、主は受け取るとすぐにそれを開いて読んだ。「三人の娘を私にお与えになられよ。お与えにならなければお前も母親も必ず殺すぞ。用意してもらう家はどこそこの池の水辺に釣殿を浮かべ、それから十七間ぽっちの間口では私の体が入っていかないからな」口に出して読んだ父親もそれを聞いた母親も涙が止まらなかった。長女を呼んで話を聞かせると長女は、「そんなこととんでもないわよ。たとえ殺されたって蛇のお嫁に行くなんて真っ平」と応える。話を聞いた次女も同じ返事をする。一番可愛がっていた末娘を呼べば両親の目から思わず涙がこぼれてしまう。が話を聞いた末娘は、「お父様とお母様が殺されることを思えば、私はどうなってもかまわないわ」と言う。それを聞いた父親と母親は可哀想で可哀想で涙が止まらなかったが、出発の準備を整え、出来上がった大蛇の言う通りの池の畔の家に皆で行き、末娘だけを残して家族は帰って行った。その夜の十時ごろのこと風がさっと吹き過ぎると雨がぱらぱら落ちて来て、雷が鳴り、稲妻がパッと光ったかたと思うと池の真ん中辺りで高い波が立ったように見え、末娘は生きた心地もせずどうしようもなく恐ろしくなって半ば気を失いそうになっていると、十七間の間口につかえるばかりの大蛇が入って来てこう言った。「お願いだから私を怖がらず、もし刃物を持っているなら今すぐに私のこの頭を斬ってくれ」末娘は恐ろしさでいっぱいだったが斬るのは可哀想で、それでも言う通り持っていた爪切りの刃でその頭に触れると頭はスッと裂けてしまう。すると中から直衣(なおし、公家の普段着)を着た目を見張るような美男子が飛び出て来て自分の脱いだ皮を末娘と一緒に体にぐるぐる巻いて、小唐櫃に入り、二人は横たわった。すると末娘はさきほどまでの恐ろしい思いも忘れ、言葉を交わして抱き合った。こうして二人の愛し合う暮らしは、どんなものでも櫃から取り出すことが出来、生活はこの上なく豊かに満ち足りていた。何人もの召し使いや多くの親族に取り囲まれていることをある時不思議に思った末娘に、この男はこんなことを言った。「私の本当の姿は龍宮の王なのだ。海の王だが空を行き来することも私には出来る。いままでお前に黙っていたが、近いうちにどうしてもいかなければならなくなったのだ。明日か明後日、私は空に昇る予定だが、七日で戻って来るつもりだ。思い通りにことが運ばずもし私が帰って来なかったら、その時は十四日待ってくれ。それでも帰らなかった二十一日待ってくれ。もし私が二十一日経っても帰って来ない時は、永遠に帰って来ないものと思ってくれ」末娘は、「その時私はどうすればいいの」と訊くと、男はこう応えた、「西の京にある女がいて、その女が一夜で成長するひさごを持っている。その一夜ひさごを手に入れ、その蔓を伝って来い。しかし大変なことだぞ。お前が空まで昇りきることが出来るかどうか私にも分からない。それでも昇りきることが出来たら道で逢った者を捕まえ、天稚御子(あめわかみこ)のおられるところはどこかと訊いて来てくれ。それから、このどんなものでも取り出すことの出来る唐櫃は絶対にどんなことがあっても開けるな。もし万が一でも開けてしまったら、私はお前の元に帰って来ることが出来なくなってしまうのだ」天稚御子はそう言うと、その日にとうとう空に駆け上って行ってしまった。そのような出来事のあった末娘の元に、幸せそうに暮らしているらしいというその様子を見ようとやって来た二人の姉が妹の家で鉢合わせして、「私たちは運の巡り合わせが悪くて、あの時はつい恐ろしいなどと言ってしまったのよ」などと言ってそこらじゅうの引き出しを開け、中のものを羨ましく思いながら、天稚御子が絶対に開けるなと言っていた唐櫃に目を留め、「開けてみてよ、ねえ見せてくれたっていいじゃない」と言うと、妹はそれを断り、「開ける鍵を持ってないの」と応えた。姉は、「そんな強情を張らず鍵を出しなさい。どうして隠したりするの」と言い、二人して妹の体をくすぐると、袴の腰の辺りに結わえてあった鍵が几帳に当たった音がして、「なんだ、そんなところに隠しているじゃない」と言って鍵を奪い取り、いとも簡単に開けてしまった。すると中身は空っぽで、煙が一筋空に立ち昇っただけである。それを見てしらけてしまった二人の姉は帰って行った。二十一日経っても天稚御子が帰って来ずもう帰って来ないかもしれないと思い、言われた通り末娘は西の京へ行き、例の女から一夜ひさごを買い、育ったその蔓を伝っていざ昇ろうとした時、自分が行方知れずになったとお知りになれば両親がどれほどお嘆きになるかと思うと、無性に悲しくなった。が、「二度と生れ故郷を見ることも出来ないんだわ」と、蔓に摑まり何度も後ろを振り返って口にした。天稚御子に逢えるかどかも分からぬまま、白雲の浮く中空をあてもなくさまよってしまうにちがいない自分はこれから一体どうすれいいのだろう。空を昇って、昇りつめたところで末娘は狩衣姿の一人の美男子に逢い、その男に、「天稚彦様がおいでになるところはどこでしょう」と訊くと、「私は知りません。この先で誰かに逢うかもしれからその者に訊いてください」と言われ、「あなたのお名前は」と訊くと、「宵の明星」とその男は応えた。言われる通り末娘が進んで行くと今度は箒を手にした男が現れ同じことを訊くと、その男は、「私は知りません。この先にいる者に訊いてください。ちなみに私はホーキ星という者です」と言って過ぎ去った。それからたくさんの人に末娘は出逢い、同じことを訊いても皆同じ応えで、たとえば先ほどの者は、「私はすばる星」と言ってすれ違って行った。逢う人逢う人に訊いても皆同じ応えしか返してくれない。このままでは天稚御子に逢うことなど出来ないのではないか、と空を掴むようでどうしようもなく心細くなってしまった。しかしそんな弱音を吐いてはいられないと思い返し、前に足を進めると、美しく立派な輿に乗った人に出逢った。末娘はもう一度同じことをこの者に訊くと、「この先を行ったところに瑠璃色の地面に玉をちりばめた御殿がある。そこで天稚御子に逢わせて下さいといいなさい」と教えてもらい、教えられた通りに進んで行って御殿で末娘は尋ねたのである。そしてついに天稚御子を探し当て末娘は願いが叶ったのでございます。無我夢中で前後の見さかいもなく飛び出してきた心細さを天稚御子にお聞かせすると、天稚御子は、「あれから毎日お前のことが気になってどうしてよいか分からなくなっていたのだ、がきっと約束通り探してくれるだろうと待つ気持ちで自分を慰めていたのだが、お前も私と同じ気持ちであったのを知って胸がいっぱいだ」と言い、それから二人であれこれ男女の情愛の言葉を交わすことが出来たのも、間違いなく前世からの深い結びつきがあったからに違いない。その御子が急に表情を改め、末娘に向かって、「実はちょっとお前にとってやっかいなことがある。ああどうすればいいのだ。正直に言う。私の父というのは実は鬼なのだ。ここにお前がいることが耳に入ったら父はどんな仕打ちをするかと思うと、心配なんだ」とおっしゃると、末娘は意外にも、「いまさら何を聞いても驚かないわ。そもそもはじめから覚悟をさせられっぱなしなのは運命みたいなものだから。そのこともそういうさだめの一つなんです。ここでどうしようと思ったところでもう帰ることなど出来ないのです。私は成り行きに任せるほかないのです」とおっしゃった。それから何日か過ぎたある日、父親がやって来たのを見て御子は咄嗟に末娘を脇息に変えると、御子の父親はそんなことは露知らず寄りかかったのだ。御子はいつばれるかと心配で見ていられない。すると、「何だか娑婆(しゃば)の人間の臭いがするぞ、ああ嫌な臭いだ」と言ってすぐに立ち上がった。それから度々やって来るようになったけれども、その度に御子は末娘を扇や枕などに姿を変えさせ、親の目を胡麻化して来たが、ついに感づいたのだろう。ある日父親は足音も立てず、秘かにスッと入って来た。運悪く昼寝をしていた御子は末娘を隠すことが出来ず、父親にバレてしまう。「この女は何者だ」と訊かれ、御子は観念し正直に白状する。「そうであればわしの嫁にしよう。ちょうど召し使いが欲しかったのだ、わしが貰い受け身の回りの用をさせるぞ」と父親が言えば、御子は、「仰せの通りに」と応えるしかなく、まったく切ない思いで末娘を渡さねばならなくなり、そうしたのである。末娘をつき従えて御子の父親の鬼が言うには、「放し飼いの牛が数千頭いる。一日その面倒を見よ。日中は野に放し、夜になったら牛舎に戻せ」そう言われた末娘は御子に、「どういたしましょう」と相談すると、御子は自分の衣の袖を解いて与え、「天稚御子の袖だ、袖だと大声で言って振れ」と教えられる。末娘が言われた通りに袖を振ると牛は素直に早朝には野に出て、夕方になると牛舎に戻って来た。千頭の牛が思い通りに振る舞うのだ。「なんと不思議なことだ」とそれを見た鬼の口から洩れた。「わしの倉の中にある千穀の米をいまお前が見せてくれたと同じように別の倉に運んで収めよ。一粒たりとも失くすでないぞ」と鬼が言う。末娘はその言いつけに従ってまた、「袖や袖や」と言うと、蟻がうじゃうじゃ現れ、ほんの一時で米を運び終えてしまう。これを見届けた鬼は算の道具から顔を上げ、一粒足りないといろをなし、「必ず見つけ出せ」と言いつける。その顔はもはやこれまでと観念するしかない恐ろしい顔つきだった。が末娘は、「きっと見つけてみせます」と応え、辺りを探し回った。そして腰の曲がった一匹の蟻が米粒を運べないでいるのを見つけ、うれしくなって、その蟻ごと摘まんで持ち帰った。すると鬼は今度は、「この娘を百足の倉に閉じ込めよ」と命令を下し、羽目板のその上に鉄板を当て閉じ込めた。百足といっても普通の百足ではない。三十センチぐらいものが四五千匹も蠢(うごめ)いて大口を開け、いまにも喰いつきそうな勢いに末娘は気を失いそうになりかけ、またも袖を振りながら、「天稚彦の袖や袖や」と唱えると、百足は一目散に部屋の隅に逃げ二度と近寄って来ず、七日経って鬼が戸を開けた時、末娘には何も起きていなかった。次こそはと今度は蛇の城に閉じ込めたが、これも百足の時と同じように末娘が袖を振って唱えると、蛇は一匹も寄って来ず、また七日が経って鬼は生きている末娘を見て驚いたのである。そしてとうとう鬼は匙を投げた。「息子の御子とお前が一緒になる因縁があったのであろうよ。お前を許すことにしてやるが、ただし前と同じように息子と逢うのは月に一度だけだぞ」と鬼が言ったのを末娘は聞き間違え、「年に一度と仰せられたのですか」と訊き返すと、「そう聞こえたのならそうだ、年に一度だ」と言って苽(こ、こも)を握って投げつけるように何度も打ちつけるとそれはばらばらに飛び散って天の川となり、二人は織女星牽牛星となって、年に一度七月七日に逢うことが出来るよになったのである。空に昇った天稚御子に逢うための一夜ひさごを長者の末娘に売るのが西の京の女である。「西ノ京。右京是也。桓武天皇延暦十三年(794)遷都の時。開くる所。長安城なり。是左京の洛陽に比するもの。━━然(しか)るに何れの時代にか(村上帝の御宇ならん(第六十二代村上天皇946~967))漸次荒廃し。名あり実なく。皆郡邑(ぐんゆう)に帰し。市街変して耕地となる。今西ノ京の地名僅かに本區及附近の小字に存するのみ嗚呼。」(『京都坊目誌』)平安京の中心、朱雀大路を挟んだ西側、右京は、土地が低く水が溜まりやすく、平城から移った住人はその水と湿気に悩まされれば離れざるを得ず、新しく住まう者もいなくなれば土地は荒廃し田畑になった。次第にそうなってしまったのが平安京遷都二百年後のことではないかという。『源氏物語』の第四帖「夕顔」の中で交わす源氏と夕顔に仕えていた右近との会話に西の京が出て来る。源氏は具合がよくないという乳母(めのと)を見舞うためその邸を訪れ、その隣りで身分を伏せるように暮らしていた夕顔と出会い通うようになるが、ある日、その屋敷に近い「そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、あづかり(管理している)召し出づる程、荒れたる門の忍ふ草、繁りて見上げられたる、たとしへなく(はなはだ)木ぐらし」屋敷に誘った夕顔がその屋敷の霊の恨みにより命を失ってしまう。源氏はその死後に夕顔に子があることを知り、右近に、「ものよせかし(連れて来ておくれ)」と言うと、右近が、「さらば、いと嬉しくなん侍るべき。かの西の京にて生(お)ひ出で給はんは、心苦しくなむ。「はかばかしくあつかふ人なし」とて、かしこになん(そうであるならばどんなにか喜ばしいことでございましょう。あのような西の京でこのままお育ちになってはあまりにお気の毒でございます。「私どものような若い者ばかりでしたので、ちゃんとお世話が出来ない」ということで西の京に住む夕顔の乳母にお預けになられたのでございます」と応える。西の京は「かの西の京にて生ひ出で給はんは、心苦しくなむ」と都びとが思うところだった。蕪村の時代でも人の灯す「提灯遠き西の京」だったのである。

 「やがてたちまちこの廊下から、広大無辺の光に満ちた宇宙が現れて来た。僕はすぐ彼女と並んで、黙り合ったまま飛行して行った。僕達は太陽の真中へ来ていたのだった。一瞬間僕は下を見おろした。僕達のずっと下の方で雲がはげしく騒いでいた。僕達の頭の前や後や周囲では、空気が金色をしていた。前方の遠い遠い涯では、雷光が閃(ひらめ)いている。その絶えまなく光る電光の中に、僕達はとうとう来てしまっていた。━━彼女と僕と二人っきりだ。この考えで僕の心は浮々して来た。━━彼女は黙っていた。彼女は太陽の真中へ来ても、黙っていることが出来る女だった。」(「太陽の中の女」マッシモ・ボンテンペルリ 岩崎純孝訳『ちくま文学の森5おかしい話』筑摩書房1988年)

 「処理水設備を韓国側視察 福島第1原発、ALPSや濃度測定確認」(令和5年5月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)