梅雨晴や野球知らねばラヂオ消す 及川貞。昨日は雨で野球中継が中止になり「いつも」の番組をラジオは流していたが、今日は野球を流しはじめた。ルールを知らない私は少しも面白くない。野球好きの夫がいまいないので私はラジオを消すことが出来る。では何をしてこの夜を過ごそうか、ラジオの音が消えて静まった夜の部屋にひとりで、ほかに楽しみのない私は。テレビのない時代の女の俳句。夏の頃夕立に遭うある話。「今は昔、▢▢院の天皇の御代に、夏のころほひ殿上人あまた、冷(すず)みせむがために大極殿に行きけり。其の共に瀧口所の衆あまた有りけり。冷(すず)み畢(をはり)て返るに、八省(八行政庁、その正殿に大極殿)の北の廊を行く程に、俄(にはか)に空陰(かげり)て夕立ぬ。然(しか)れば、「今や晴る晴る」と立ちて待つ間に、或(あるい)は笠持てきたる人も有り、持てきたらぬ人も有り。然(しか)れば君達は多くて笠は少ければ「笠持てきたるを待つて」と立たる程に、官掌(くわじやう、下僚)▢▢の得任(ありたふ)と云ふ者有り。家は西の京に有ければ、陣(警護の詰所)に参て罷(まか)り出でけるが、俄に夕立に値(あひ)て、束帯したる者の袖を被(かうぶり)て西の京様に走て行くが、此(か)く殿上人のあまた立たる前を渡るに、瀧口所の衆もあまた居たり。其の中に瀧口忠兼は、實(まこと)は此の得任が子也。其れを烏藤太▢▢と云ふ者の、児(ちご)也ける時より取て養て、烏藤太も「我が實(まこと)の子也」と云ひ、忠兼も然(し)か名乗て、得任が子と云ふ事をば、人顕(あら)はれても云はずして、私語(ささめ)きてのみ有けるに、忠兼、瀧口共の有る内にて、此の八省の廊の北面(おもて)に居並たるに、此(か)く得任が夕立に値(あひ)て、沓(くつ)・襪(したくつ、足袋)をば手に取て、袖を被(かうぶり)て湿(ぬれ)て走り行くを、忠兼、見て迷(まどひ)て、袴の扶(くくり)を上て、笠を取て走り寄りて得任に差し隠して行くを見て、殿上人より始めて瀧口所の衆皆此れを見て、咲(わらは)ずして、或は泣にけり。「極(いみ)じき。誰也と云ふとも、然(さ)ばかり諍(あらそ)ひ立て、祖(おや)にもあらずと名乗て、吉き祖(おや)を持たらむに、更に、笠差て、多くの人の見るに、送らむ事は有らじ。責(せめ)ての有心(うしん)には立けり隠れむ。其れに、此(か)く笠を差て送るは、憐れに有りがたき者の心也」と云て、祖(おや)有る人も祖」(おや)无(な)き人も泣(なく)なるべし。得任は、「隠す事ぞ」と知たれば、忠兼が瀧口の中に居たるを見て、此れが見る前に此(か)くて渡るを耻(はづ)かしと思て、知らず皃(がほ)にて行くを、身乍(ながら)も心疎(う)しと思ふに、忠兼が笠を差て走り来たりて、差し隠せば、「此(こ)は何(いか)に令(せし)め給ふぞと」云て皃(かほ)を見れば、忠兼が差たる也けり。得任、此れを見て目より涙を落して、「穴忝(かたじけな)忝(かたじけな)」と。忠兼、「何(いか)にか忝(かたじけな)く候はむ、何(いか)でかと」云て、慥(たしか)に西の京の家に送りつけてぞ内に返り参たりける。殿上人共皆内に返り参て、關白殿の御宿所に参て、此の事を語り申しければ、殿の聞(きこ)し食(めし)て、極(いみ)じく哀がらせ給ひて、内にも申させ給ひてけり。其より後、忠兼、思(おぼ)え増りて上より始めて万(よろづ)の人に讃(ほめ)られなむしける。亦(また)忠兼を知る智(さと)り有り止(やむ)事なき僧、此の事を聞て、忠兼に云ける様、「汝が孝養の心極て貴し、塔寺を建て佛經を冩さむにも勝(すぐれ)たり、此れ、諸(もろもろ)の佛菩薩も讃(ほ)め給ひ、諸天も守り給ふ事也。譬(たと)ひ人有て无量(むりやう)の善根を造と云へども、不孝の者は其の益(やく)を得ず」と教へければ、忠兼此を信じて弥(いよい)よ孝養しけりとなむ語り(傳へたりとや。)」(『今昔物語集』巻第十九第二十五「瀧口藤原忠兼實(まこと)の父の得任(ありたふ)を敬(うやま)へる語(こと)」)昔、▢▢院の天皇の時であるが、夏の暑い盛り幾人もの殿上人が涼もうと大極殿に参ったが、すでに何人もの瀧口の武士たちが涼んでいた。暫く涼んで大極殿を出て北の廊下を歩いていると俄かに空がかき曇り夕立がやって来た。こうなると帰れず、「もうそろそろ上がるころだ」などと云いながら雨が上がるのを待っている間にどこからか傘を借りて来た者もいたがまだ持っていない者もいて貴族の坊ちゃんたちのことだから「誰かが持って来るのを待ちましょう」とその場に突っ立っている。さて下僚▢▢の得任と云う者がいて、家は西の京にあって瀧口の詰所に出向いた帰りに夕立に遭い、着ていた束帯の袖で頭を覆って西の京に向って走っていてあの殿上人らの雨宿りをしている前を横切ろうとした時一緒に瀧口の武士が何人もいるのが分かった。その中にいる忠兼は得任の実の子である。が、幼いころ烏藤太▢▢という者が引き取って養子にし、烏藤太は世間に「私の実の子だ」と云い、忠兼もそのように名乗っていたが、本当は得任の子であるということは誰も人前では口にしないが陰ではそのように噂をしていたのだ。丁度その時忠兼は瀧口の同僚たちと北の廊下で雨宿りをしていて、夕立の雨の中を脱いだ沓と足袋を手に持って袖で頭を覆って濡れ鼠になって走って来た得任を目にしたのだ。忠兼は迷った挙句袴をたくし上げ殿上人の手から傘を奪って得任のところに走って行って傘を差しかけた。これを見た殿上人やすぐに気づいた瀧口の武士たちは誰も嘲(あざ)笑ったりするどころか涙を流す者もいた。「何と感心なことよ。それが誰々と云おうが、あんなに脇目も振らず飛び出し、立派な親にめぐまれているのに、皆が見ている前で親ではないと名乗っている者に傘を差しかけ送っていくことなど到底ほかの者には出来ない。せいぜい気を遣ったところでどこかに隠れてしまうのがせいぜいだ。ところがこのように傘を差しかけ送って行くというのは何という見たこともない情愛の持ち主だ」と云って、親のある者もない者も涙を流したのだ。その時得任はというと、「(自分が実の親だということは忠兼が)秘密にしていることだ」と思っていたので、忠兼が瀧口の中にいるのを見つけ、あいつに見られる前でもこんな格好で通るのは見っともないと思っていたし、素知らぬ顔をして行くのも自分でも気まずいことだと思っていた。そこへ忠兼が傘まで持って走って来て差し隠せば、「これは何をなさいます」と云ってその顔を見る、何と忠兼が傘を差しかけているではないか。得任は忠兼のその姿を見て目から涙を落し、「何とかたじけない、かたじけない」と云えば、忠兼は、「何がかたじけないのでございます、どうして」と云って、寄り添いながら西の京の家まで送り届け内裏に戻って参ったのでした。殿上人も皆内裏に戻って参って、関白殿の御宿所に参り、この出来事をお聞かせ申し上げれば、殿はお耳におとめになられ大層哀れまれ、天皇にもお申しになられた。その後忠兼はますま評判になって天皇からはじまり万人に褒められることとなったのである。そして忠兼をよく知る悟りを開いた高名な僧がこの事を聞き、忠兼にこのように語って聞かせたという。「お前の孝養の心は極めて貴いものである。塔や寺を建てどれほどの経を写すことよりも勝っている。このことは諸々の仏も菩薩もお褒めになられているはずだ。諸々の天神もきっとお守りなさることである。たとえどれほど素晴らしい行いをなそうとする者がいたとしても孝行をなさぬ者の行いは何も齎(もたら)さない」このような教えを受けた忠兼はこの言葉を信じますます孝養に励んだと語り伝えられているということだ。美談として結末の僧の話は余計であるが、この話は得任と忠兼という二人の者の視点を書いていることに些(いささ)かの驚きがある。
「私が広島の空襲を知つたのは、事後三十時間か四十時間たつてからである。原子爆弾の被害を受けた怪我人の一人が先づ隣りの村に逃げ帰つて、奇怪な爆弾で広島が一瞬の内に無くなつたと云つた。その噂が私たちの村に伝はつたのである。この怪我人は小林哲男といふ名前で、もと私たちの村の小学校長をしてゐたが、数年前に栄転して広島市の小学校長を勤めてゐた。私はこの人を知つてゐる。小学校のとき私の一級上のおとなしい子供であつた。私の羽織の紐が下駄箱の蝶つがひに引つかかつて、それをはづすのに困つてゐるのを小林哲男が見て造作なくはづしてくれた。私はそれを覚えてゐる。」(「かきつばた」井伏鱒二『井伏鱒二全集 第十五巻』筑摩書房1998年)
「福島県への移住、23年度は過去最高3419人」(令和6年6月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)
智恵光院通の辺り。