「祭りのじつに多い京都で、千重子は、鞍馬の火祭りが、むしろ大文字よりも、好きであった。苗子もさう遠くないので、見に行つたことはあつた。しかし、火祭りで、これまでに、もしすれちがつてゐても、おたがひに気がつかなかつたのかもしれぬ。」(『川端康成全集第十二巻』新潮社1970年刊)川端康成の京都を舞台にした『古都』の一文である。こう続いている。「鞍馬街道から、參道の家々に、木の枝のしきりを設け、屋根に水を打つておいて、夜半から、大小さまざまの、松明をかざして、「さいれいや、さいりやう」と、となへながら、社にのぼる。炎はもえさかる。そして、二基の神輿が出ると、村(今は町)の女たちが總出で、神輿の綱をひく。終りに、大松明を獻じて、祭りはほぼ明け方までつづく。ところが、今年は、この名物の火祭りをやめた。儉約のためであるとかいふ。竹伐り祭りは、いつもの通りあつたが、「火祭り」は行はれない。北野天神の「ずいき祭り」も、今年はなかつた。ずいきが不作で、ずいきの神輿をつくれなかつたのだとかいふ。」「竹伐り祭りは、いつもの通りあつた」と述べている、その「竹伐り祭り」の場面を前の章で川端康成はこう描写している。「━━竹伐りに奉仕するのは、僧ではなく、おもに里人である。法師と呼ばれる。竹伐りの支度として、十八日に、雄竹、雌竹、四本づつを、本堂の左右に立てた丸太に、横しばりにする。雄竹は根を切つて葉をつけ、雌竹は根をつけたままである。本堂に向つて、左が丹波座、右が近江座と、むかしから呼ばれてゐる。當番にあたつた家の者は、傳來の素絹をつけ、武者わらぢをはき、玉だすきをかけ、二本の刀をさし、頭に五條のけさを辨慶かぶりに巻き、腰に南天の葉をつけ、竹伐りの山刀は、錦の袋にをさめられてゐる。そして、先拂ひのみちびきで、山門に向ふ。午後一時ごろである。十徳姿の僧のほら貝で、竹伐りがはじまる。二人の稚兒が聲をそろへて、「竹伐りの神事、めでたう候。」と、管長に言ふ。それから、稚兒は右と左の兩座に進んで、「近江の竹、みごとに候。」「丹波の竹、みごとに候。」と、それぞれほめる。竹ならしは、丸太にしばつた雄竹を、まづ切つて落し、ととのへる。細い雄竹は、そのままにしておく。稚兒が管長に、「竹ならし、終り候。」と、告げる。僧たちは内陣にはいつて、讀經する。蓮華のかはりに、夏菊の立花(りつくわ)がまかれる。管長は檀をおりて、檜扇(ひあふぎ)を開いて、三度上げ下げする。「ほう。」と言ふ聲につれて、近江、丹波兩座、二人づつが、竹を三段に切る。」(『同』)『古都』は、昭和三十六年(1961)十月十八日からの朝日新聞の連載小説で、この連載の年、六月の鞍馬の「竹伐り祭り」は見ることが出来たが、「火祭り」は小説にある通り中止となって「見る」ことが出来なかったため「見なかった」として、その事実の通り、川端康成は「火祭り」をそっけなく書いた。鞍馬の「火祭り」は十月二十二日に行われる由岐神社の神事である。由岐神社は鞍馬寺の鎮守社である。が、その元(もとい)は御所の内にあった。その靫(ゆき)明神(由岐大明神)を天慶三年(940)、御所から鞍馬に移したのは第六十一代朱雀天皇である。その三年前、富士山が噴火し、洪水に見舞われ、そして将門の乱が起った。大事が起ってしまったのである。「今は昔、朱雀院の御時に、東国に平将門と云ふ兵(つはもの)有りけり。此れは、柏原天皇の御孫に高望親王高望王)と申しける人の子に、鎮守府の将軍良持と云ひける人の子なり。将門、常陸・下総の国に住して、弓箭(きゆうぜん)を以て身の荘(かざり)として、多くの猛き兵を集めて伴として、合戦を以て業とす。初めは、将門が父良持が弟に、下総介良兼と云ふ者有り。将門が父失せて後、其の伯父良兼と聊(いささ)かに吉からぬ事(ささいな争い事)有りて、中(なか)悪(あ)しく成りぬ。亦(また)、父故(こ)良持が田畠の諍(あらそひ)に依りて、遂に合戦に及ぶと云へども、良兼、専(もは)らに道心有りて仏法を崇むるに依りて、強(あなが)ちに合戦を好まず。其の後、将門、常に事に触れて親しき類伴と隙(ひま)無く(頻繁に)合戦しけり。或いは多くの人の家を焼き失ひ、或いは数(あま)たの人の命を殺す。此(か)くのごとき悪行をのみ業としければ、その近隣の国々の多くの民、田畠作る事も忘れ、公事(納税、労役)を勤むる隙(ひま)も無し。━━此(か)く様(やう)に忩((しばし)ば合戦(あひたたか)ふ程に、武蔵権守興世(むさしごんのかみおきよ)王と云ふ者有り。此れは、将門が一つ心の(心を同じくする)者なり。━━而(しか)る間、興世王、将門に議(はか)りて云はく、「一国を打取ると云ふとも(奪い取るだけでも)、其の過(とが、罪)過ぎじ(免れまい)。然(しか)れば、同じく坂東を押領して(同じことなら関東一円を奪って)、其の気色を見給へ(成り行きを御覧になられよ)」と。将門答へて云はく、「我が思ふ所、只此れなり(まさにその通り)。東八ヶ国より始めて、王城(都)を領せむと思ふ。苟(いやし)くも将門、柏原天皇の五世の末孫なり。先づ諸国の印鎰(いんいつ)を奪ひ取りて、受領を京に追ひ上せむ(追い返す)」と。(そして将門が関東の大半を攻め落とし)━━其の時、一の人有りて、クチバシリテ(神がかりとなり)、「八幡大菩薩の御使なり」と稡(さい、(誶(すい)であれば告げる)て云はく、「朕(ちん)が位(帝王の位)を蔭子(おんし、父祖のおかげで位を得た五位以下の者の子)平将門に授く。速(すみや)かに音楽を以て此れを迎へ奉るべし。」と。将門此れを聞きて再拝す。況(いはん)や若干(そこばく)の軍(大勢の兵士ども)、皆喜び合へり。爰(ここ)に将門、自ら表(へう)を製して(文書を作り)新皇(しんくわう)と云ふ。即ち公家(朝廷)に此の由を奏す。」(『今昔物語集』巻第二十五第一「平将門、謀反を発(おこ)し、誅(ちゆう)せらるる語(こと)」)そしてついに、「我が天位を領すべき由(己(おの)れが皇位に即くという旨)を太政官に奏し上ぐ。」が、新皇将門の天皇になる望み空しく平貞盛藤原秀郷らによって打ち倒され、「その後、将門、或る人の夢に告げて云はく、「我れ生きたりし時、一善を修めず、悪を造りて、此の業に依りて独り苦を受くる事堪難(たへがた)し」と告げけりとなむ、語り伝へたるとや。」(『同』)平将門は人の夢の中に出る死人となったが、朱雀天皇は世の泰平を願い、御所に祀られていた靫(ゆき)明神を都の北、鞍馬に移すことにしたのである。「鴨川に生えた葦で松明を造り、道々には篝火を焚いて、神道具を先頭に文武百官供奉の国家的一大儀式により御勧請されました。その行列の長さ10町(1km)にもなったと言われております。この儀式に感激した鞍馬の住民がこの儀式と由岐大明神の霊験を後世に伝え遺し守ってきたのが鞍馬の火祭の起源であります。」(由岐神社ホームページ)川端康成よりやや詳しく記せば、鞍馬の「火祭り」の松明は躑躅の柴を杉の割り板に藤の根で括りつけた長さ四メートル重さ一キロの大松明で、日が暮れると、鞍馬街道の戸口戸口に篝火が焚かれ、神事を告げる子どもが掲げる松明にはじまり、幟を先頭に裃の持つ松明に続き、いよいよ黒い締め込みに草鞋の男ニ三人がその大松明ニ十本を肩に担ぎ抱え、夜の道を練り歩く。松明から上がる煙と匂いが見物人で埋まる夜空に充満する。その時の掛け声「サイレイ、サイリョウ」とは「祭礼、祭礼」のことである。大松明の行く先は、鞍馬寺仁王門石段下の狭い広場である。下に大松明が建ち並び、石段の上で注連縄が切られると、八所大明神由岐大明神の神輿二基が転がる如くに石段を駆け降り、その転げ落ちるのを許さぬように後ろで繋いだ幾本かの綱を引くのが若い女である。そして若い男が神輿の柄の上で大の字になるのは、この地の成人になるための通過儀礼なのである。降りた神輿は町内を練り歩き御旅所へ、大松明は由岐神社の境内を一晩灯し回る。「千重子は、鞍馬の火祭りが、むしろ大文字よりも、好きであった。」千重子は、ある呉服問屋の店先に捨て置かれていた捨て子だった。が、千重子は双子でありそのもう一人、苗子は北山杉の磨きを生業に北山に住んでいた。ある日その北山で見かけた自分にそっくりな苗子と、千重子は偶然祇園祭で再会する。その時、千重子に思いを寄せていた帯織り職人の秀男が千重子と思い、人混みに隠れていた千重子の前で苗子に声を掛けてしまったことから、千重子と秀男の気持ちは身の回りのことどもが絡みながら揺れる。が、苗子はそうともならず、離れ離れに育った姉妹の短い再会に小説の終わりできっぱり千重子に別れの態度を示す。はじめて千重子の家に泊まり語り合った粉雪の舞う翌日の早朝、苗子は千重子に、「お嬢さん、これがあたしの一生のしあわせどしたやろ。人に見られんうちに、歸らしてもらひます。」と云うと、千重子は自分のいちばんいいびろうどのコオトと折りたたみ傘と高下駄を苗子に渡す。「「これは、あたしがあげるの。また、來とくれやすな。」苗子は首を振つた。千重子は、べんがら格子戸につかまつて、長いこと見送つた。苗子は振りかへらなかつた。千重子の前髪に、こまかい雪が、少し落ちて、すぐに消えた。町はさすがに、まだ、寢しづまつてゐた。」(『古都』川端康成川端康成全集第十二巻』新潮社1970年刊)千重子のいう好き嫌いの「鞍馬の火祭り」と「大文字の送り火」は、これを並べ比べるにはおよそ「素生」の違うものである。「生粋」の「京都人」であれば、このような一見の火の「静」と「動」の如きでこの二つを引き比べるような真似は恐らくしない。「京都人」は「鞍馬の火祭り」も「大文字の送り火」も京都に根づいた歴史を尊ぶことを身に染みつけ染みついているのであるから、好き嫌いなどと思うことのない厳かなことがら行事なのである。

 「彼れは目を移して道の左右を見た。夕日は電信柱の影を金物屋の壁に印してゐる。壁の隅には薄墨で、「法樂加持」と書いた大福寺の廣告が貼りつけられ、その片端が剥げかゝりふらふら動いてゐる。牛乳配達と點燈夫とが前後して走つてる後から、白い帽子を戴き裙(すそ)の廣い黒衣を着け、腰に長い數珠を垂れた天主教の尼が二人、口も閉ぢ側(わき)見もせず、靴は土を踏まぬが如く、閑(しず)かに音も立てずに歩んで來る。深く澄んだ空を煙突の黒煙が掻亂し、その側を一列の鳥が横切つた。晝間の温かさも急に薄らいで、健次は肌寒く感じた。」(「何處へ」正宗白鳥『日本文學全集12 正宗白鳥集』新潮社1963年)

 「処理水、2回目の海洋放出完了 福島第1原発、総量7810トン」(令和5年10月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)