牡丹蕊(しべ)深く分け出づる蜂の名残哉 芭蕉。牡丹の荒らされた惨状とその花の「誘惑」に溺れ花粉まみれになった蜂の「慾」の毒々しさ、ふてぶてしさが「深く分け出づる」なのであろう。蜂はいままだ荒々しい息をしている。恐らくこの芭蕉の句を念頭に、永田耕衣は次の句を詠んだ。牡丹花に虻が生きたるまま暮るる。虻は牡丹の至福の心地良さにどっぷり浸り時を忘れ、我を忘れ、生きること、生きていることすら忘れてしまっているようだ。耕衣の「生きたるまま暮るる」は芭蕉の「深く分け出づる」に対する言葉であり、鋭く見た芭蕉のいい表わしより冷徹な眼差しで二、三歩高みに進んだ「文学的」表現である。この「文学的」という意味は、たとえば藤田湘子の、金の虻よろめき出でし牡丹かな、と較べれば一目瞭然である。「生きたるまま」はすべてを包括してとどめを刺し、「よろめき出でし」は表現として只々卑(いや)しい。白牡丹われ縁側に居眠りす 川端茅舎。ぼうたんや眠たき妻の横坐り 日野草城。「ここ」では牡丹の傍らで人が「生きたるまま」居眠りし、あるいはうとうとしている。牡丹に息を濃くして近寄れる 草間時彦。「息を濃くして」は「深く分け出づる」前の蜂もそうであったかもしれぬ。見てゐたる牡丹の花にさはりけり 日野草城。思わずも牡丹に触れてしまった日野草城は、このようにも牡丹を詠んだ。ぼうたんのひとつの花を見尽さず。私は牡丹という花のひとつですらその魅力を見尽くすということは到底出来ない。が、この花を「見尽く」した句も世にはあるのである。牡丹散つてうちかさなりぬニ三片 蕪村。白牡丹といふといへども紅ほのか 高濱虚子。

 「夜の微光、電光に照らされた雨の輝きとでもいった微光がガラス窓から射しこみ、屋根と樋を流れ、洗い、落下していく雨の音が聞こえていた。ときおり、偶然にも雨の音と人声とが同時にはたととまることがあったが、そのたびにひとしお寒さがましていくような感じだった。そんな瞬間、ジーニアは闇のなかにじっと目を見ひらいて、アメーリアのたばこの火を見わけようと苦心した。」(「美しい夏」チェーザレパヴェーゼ 菅野昭正訳 白水社1964年)

 「汚染水1日80トンに減少、福島第1原発 地表舗装の対策効果」(令和6年4月26日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都府立植物園にて。