千本ゑんま堂は、縮んだ背筋を僅かばかり傾け歩く高齢の尼僧が引き継いでいるが、はじまりは平安後期とされ、『都名所図会』にはこうある。「千本閻魔堂は蓮台寺の南にあり、引接寺と号す。宗旨は真言なり。本尊は閻魔大王にして、法橋定朝の作。当寺の開基は定覚律師と鐘の銘にあり。大念仏は文永年中(1264-1275)に如輪上人はじめ給ふ。この寺の桜に普賢象といふあり。弥生の頃、花盛りを待ちて狂言をはじむるなり。一説にむかし笙の窟(しやうのいはや、奈良吉野の大峰山)の日蔵上人、冥土にいたり給へば帝(醍醐天皇)いまして、上人に向ひて宣(のたま)ふやうは、われ娑婆の業因深うして今浅ましきくるしみを受けたり。汝娑婆に帰りてわが為に千本の卒塔婆を供養すべしと、一首の歌を詠じ給ふ。いふならく奈落の底に入りぬれば刹利(せつり、最上位の位)も首陀(しゆだ、最下位の位)もかはらざりけり。日蔵感涙袖あまり、急ぎ帰ると思へば夢なり。この旨を奏聞して舟岡山に千本の卒塔婆を建て、当寺を造立し、いかめしき(盛大な)御とぶらひ供養をしけるとなり。」大念仏は念仏法会のことで、夜通し続く念仏踊りの眠気覚ましにはじまった狂言が、江戸の頃からは法会が失せ、狂言だけを催すことになったという。五月一日から四日にかけて大念仏狂言は昼夜催され、三日の昼に出掛ければ炎天下、舞台前のパイプ椅子の座席はすでに埋まっている。本堂の湿った薄暗い蝋燭の灯る中を抜けた社務所で御守を求める者もいるが、赤い提灯を幾つもぶら下げた門を潜って来る者のほとんどはそのまま本堂に建て増した安普請の小屋の如き舞台の方に向かい、午後一時、鉦と太鼓の音とともに毎年はじめに演じられるという「閻魔庁」が幕を開ける。鬼に引き紐で縛られた白装束の子どもが演じる亡者が小突かれながら坐って待ち構える閻魔大王の前に跪(ひざまづ)き、なおもその前で髪振り乱す鬼に責め立てられ、両手で目をこすって泣いていた亡者は堪らず懷から一本の巻物を取り出すと、鬼の目が眩む。開いた巻物にはこの亡者の前世での善行が記されているらしい。そうと分かると閻魔大王は亡者に繋がっていた紐で鬼を手繰り寄せ亡者を放つよう申しつけて去る。閻魔大王を見送った鬼は申しつけに従わず亡者をいじめ、亡者の巻物で目が眩み、いじめれば巻物で目が眩み、ついに鬼は巻物を渡せば負ぶって極楽へ連れて行くと約束し、信じて渡した巻物を懐に収めた鬼が亡者を負ぶって舞台を去って行く。観客の拍手が止むと、暑さに耐えかねたように席を立つ者もいて、立ち見もばらばら綻ぶように入れ替わる。次の演目は「寺譲り」である。「閻魔庁」は笛鉦太鼓の音を背にセリフを発しない見世物であったが、千本ゑんま堂の大念仏狂言壬生狂言、嵯峨狂言と違い演者はセリフを掛け合う。鉦と太鼓に誘われるように寺の隠居がしずしずと現れ、寄る年波なれば沙弥(さんみ、若い坊主)に寺を譲ろうと述べ、沙弥を呼び、その旨伝えると、沙弥は目の前の柱を両手で揺すって隠居に叱られ、寺を任すということだと云われれば、四股を踏んで柱に体当たりし、また叱られ、寺を持つということだと云われれば、床の敷居に這いつくばって持ち上げようとする。が、沙弥は目出度く寺の住持となる。場面変り、檀家のゴ左衛門がやって来て生憎の天気傘を貸して欲しい、と頼まれた住持となった沙弥が寺に一本きりの傘を貸したことを隠居に伝えると、隠居は次からはこう云って断れと諭す。「傘はこの間、逮夜(たいや、命日の前日)に参り、おりふし道にて雨に遭い、持って帰って縁側に干しておいたら、比叡颪(ひえいおろし)がドッと来て、宙に舞い上り、落ちたところが骨は骨、紙は紙とバラバラになりましたよって、荒縄でひっ括り、天井裏に吊り下げてございますれば、今日のお間にはあいなりませぬ」場面変り、隣村のシブシロウ左衛門がやって来て、道中馬が脛を痛めたので馬一頭拝借したいと住持の沙弥に頼む。住持の沙弥は「馬はこの間、逮夜に参り、おりふし雨に遭い、持って帰って縁側に干しておいたら、比叡颪がドッと来て、宙に舞い上り、落ちたところが骨は骨、紙は紙と━━」と応えれば、観客の笑いが起こる。この辺りまで立ち見をしていたが暑さに勝てず、本堂の庇の下に逃げ込み、聞こえて来るセリフに耳を傾けていると、ヒエッと女の声が上がる。その方を見れば、入り口の石段に腰を下ろしていた年の入った女が後ろに仰向けに倒れている。傍らにいた中年の女が倒れた女に声をかけるが返事はない。別の女が脈を取り、体を揺すって名前を訊くが、周りを取り囲まれ倒れた女が返事をしたかどうか分からない。誰か救急車を呼んでと中の一人が声を上げると、傍らにいた中年の女が携帯恵電話で通報し、高齢の女性が倒れ、熱中症かもしれない、八十才くらい、意識はない、千本ゑんま堂の本堂前などと伝えるが、舞台の客席にいる者からは見えないこの事態は観客の誰も知らず、舞台の上では、傘の断りを馬の断りに使った住持の沙弥が隠居に叱られ、馬の断り方はこうだと諭される。「馬はこの間脛を痛め、下の町の塩屋から塩薦(しおこも)を取り寄せ、足にグルグル巻いて、馬部屋にウマしておりますれば、今日の間はえまいりません」サイレンの音が鳴り響いて来る。と、倒れていた女が目を覚ましたようで、誰かが大丈夫かと声をかける。女は片肘をついてゆっくり起き上がる。舞台では、新町のおのうという女が現れ、「みょうにちはてての三年にございますれば、檀那寺へ参り、ご回向をたのもうとぞんじ、まずは案内をかいましょう、おたのもうしましょう」と云っている。救急車が赤い提灯が下がる門の前に停まり、薄水色のビニールの防護服に身を包んだ隊員が一人駆け足で、その後ろから同じ格好の隊員二人がストレッチャーを押して来る。早速聞き取りファイルを開いた隊員に倒れた女は大丈夫だと応えたらしく、隊員は病院には行かなくてもいいからせっかくきたのだから救急車の中で血圧などを調べさせてくれと説得する。舞台の声は、自分が住持となったことを笑ったおのうという女に沙弥が、馬の断り方で「ご隠居様はこの間脛を痛め、下の町の塩屋から塩薦を取り寄せ、足にグルグル巻いて、馬小屋にウマしておりますれば━━」と掛け合い、観客が笑う。倒れた女は説得に従ったようで仰向けのまま隊員に持ち上げられ足を畳んだストレッチャーに乗せられる。女の白いズボンの尻の辺りが濡れているのが見てとれる。電話を掛けた中年の女がすかさずペットボトルのお茶を倒してこぼしたようだと口にする。が、女は気を失った時尿を漏らしたのかもしれない。舞台のおのうはゲラゲラ笑って住持の沙弥の云い分を取り合わず、笑い声を残したまま舞台を去り、おのうとのやり取りを隠居に伝えると住持の沙弥は隠居から、ものの分からぬ者にこの寺を任すわけにはいかない、とっとと出て行ってもらいましょうと云われ、私がこの寺の住持ご隠居様こそ出て行きなされ、さもないとご隠居様とおのうの仲を檀家衆に触れて回ります、と脅す。が、出て行けという権幕に住持の沙弥はお許しくださいましょうと謝り、いや出て行けと掛け合いながら二人は舞台から去る。拍手が起こる。まだ提灯の下る門の前に救急車の姿がある。倒れた年寄りの女は運ばれる前、観客の笑い声を耳にしただろう。仰向けの目に青空を映し、自分の名前を隊員に伝えた女の年は八十ではなく七十六であった。

 「だが、そういう感覚に行き当らずにいられなかった。そんな避けられない偶然の出会い方こそ、まさに、その感覚がよみがえらせたある過去とその感覚が引き出したもろもろの心像との真実性に、検印をうつものであった。まして、われわれは光のほうに向ってうかびあがろうとするその感覚の努力を感じ、ふたたび見出された現実というものの喜びを感じるのである。」(「見出された時」マルセル・プルースト失われた時を求めて井上究一郎・淀野隆三訳 新潮社1974年)

 「福島県、子ども18万6508人 前年比6114人減、最小更新」(令和6年5月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)