いちめんの黄色は背髙泡立草 今井杏太郎。御室仁和寺の門前はいま、このような様子である。あるいは、忘れゐし空地黄となす泡立草 山口波津女。三千九百平方メートルの空地に出来るはずだったガソリンスタンドとコンビニエンスストアは幻に終わり、三階建てのホテル計画は滞っているという。土地の所有者が蒔いたのではない。泡立草の種はもともと土の中にあったものか、勝手にやって来たものである。その勝手には手ごころを加えるような容赦がない。後々計画通りに事が進めばコンクリートの下敷きになるのであろうが、そんなことは知ったことではないというのが背髙泡立草の云い分である。仁和寺から西へ七、八キロの、愛宕山大鷲峰の山腹に月輪寺がある。源頼朝との関係がおかしくなって失脚し、法然のもとで出家した摂政関白に昇りつめた九条兼実(くじょうかねざね)が晩年を過ごした寺である。承元の法難(承元元(1207)年)と呼ばれる、後鳥羽上皇に弟子の安楽と住蓮が難癖をつけられ、その教えである念仏もろとも法然親鸞流罪が言い渡された時、二人は月輪寺を訪ね、兼実は離別を惜しんだ。後に東国から京に戻った親鸞は、流罪が解けてほどなく死んだ法然を偲び、月輪寺を訪れる。その道中で村人から塩で炊いた大根を振る舞われた。親鸞はその礼に辺りに生えていた薄を折ってその穂を束ね、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」と書いて渡した。これは「南無阿弥陀仏」と同じ名号、唱えの言葉である。「南無阿弥陀仏」が、阿弥陀仏様に帰依します、であれば、「帰命尽十方無碍光如来」は、慈悲の光で世界を影なく照らしてお救い下さる如来様に身心を捧げ帰依いたします、と唱えるのである。が、唱えるのには「南無阿弥陀仏」よりもいかにも厳(いか)めしい。が、この厳めしい字面(じずら)をたとえば目の前で揺れる一面の背髙泡立草に重ねてみる。「帰命尽十方無碍光」遮るものが何一つなく辺り一面輝くような黄色い花は、己(おの)れの命(めい)に帰すこと、従うことに尽くしている。但し、この景色に如来の二字の出る余地はない。親鸞が振る舞われた大根は、鳴滝の了徳寺に大根焚きとして残っている。三千本の大根を外に据えた竈で焚く師走の行事である。世の末の花か背髙泡立草 矢野 絢。

 「昨夜はかなり雨が降ったが、今日は空が明るくなってきた。感染ゼロの団地では、徐々に内部開放が進んでいる。今日は窓の外で、子供の笑い声が聞こえた。まったく久しぶりのことだ。団地の外に出ることも許された。ただ、時間制限は守らなければならない。」(「三月二二日 野火は焼けども尽きず、春風吹けばまた生ず」方方(ファンファン) 飯塚容・渡辺新一訳『武漢日記』河出書房新社2020年)

 「元生徒ら「懐かしい」…大熊中、10年ぶり開放 解体控え私物返却」(令和3年10月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)