行けど行けど一頭の牛に他ならず 永田耕衣。これを、行けど行けど一人(いちにん)の人に他ならず、と変えれば忽(たちま)ち「悟り」臭「仏教」臭が鼻につく。いや、牛であっても「悟り」臭は残る。どこまで行ったところで牛は牛であると。が、その先へ行けば行くほど牛は「本来」の「本当」の「本物」の牛に近づくのではないか。であればその先とはどこで、その「本物」の牛とは何か。『今昔物語集』にこのような牛が出て来る。「今は昔、播磨守佐伯公行と云ふ人有りけり。其れが子に、佐大夫▢とて、四条と高倉とに有りし者は、近来有る顕宗と云ふが父なり。其の佐大夫は、阿波守藤原定成朝臣が共に、阿波に下りける程に、其の船にて守と共に海に入りて死にけり。其の佐大夫は、河内禅師と云ひし者の類親にてなむ有りけり。其の時に、其の河内禅師が許に黄斑(あめまだら)の牛有りけり。其の牛を、知りたる人の借りければ、淀へ遣りけるに、樋集(ひづめ)の橋にて、牛飼の車を悪しく遣りて、車の片輪を橋より落したりけるに引かれて、車も橋より落ちけるを、「車の落つるなりけり」と思ひけるにや、牛の踏みはだかりて動かで立てりければ、鞅(むながい)の切れて、車は落ちて損じにけり。牛は橋の上に留まりてぞ有りける。人も乗らぬ車なれば、人は損ぜざりけり。弊(つたな)き牛ならましかば、引かれて牛も損じなましを。然れば、極(いみ)じき牛の力かなとぞ、其の辺の人も讃めける。其の後、其の牛を労(いた)はり飼ひける程に、何にして失せたりとも無くて、其の牛失せにけり。河内禅師、「此は何なる事ぞ」とて、求め騒ぎけれども無ければ、離れて出でにけるかとて、近くより遠きまで尋ねさせけれども、遂に無ければ、求め繚(あつか)ひて有る程に、河内禅師が夢に、彼の失せにし佐大夫が来たりければ、河内禅師、「海に落ち入りて死にきと聞く者は何で来たるにか有らむ」と、夢心地にも怖しと思ふ思ふ出で会ひたりければ、佐大夫が云はく、「己(おの)れは死にて後、此の丑寅(うしとら、北東)の角の方になむ侍るが、其れより日に一度樋集の橋の許に行きて苦を受け侍るなり。其れに、己れが罪の深くて、極めて身の重く侍れば、乗物の堪へずして、歩(かち)より罷(まか)り行くが極めて苦しく侍れは、此の黄斑(あめまだら)の御車牛の力の強くて乗り侍るに堪へたれば、暫く借り申して乗りて罷り行くを、極(いみ)じく求めさせ給へば、今五日有りて六日と申さむ巳(み)の時許に返し申してむとす。強(あなが)ちにな求め騒がせ給ひそ」と云ふと見る程に、夢覚めぬ。河内禅師、「此(か)かる恠(あや)しき夢をこそ見つれ」と人に語りて止みにけり。其の後、其の夢に見えて六日と云ふ巳の時許(ばかり)に、此の牛俄(には)かに何(いづ)こより来たりとも無くて歩び入りたり。此の牛、極(いみ)じく大事したる気(け)にてぞ来たりける。然れば、彼の樋集(ひづめ)の橋にて車は落ち入り、牛は留まりけむを、彼の佐大夫が霊(りやう)の、其の時に行き会ひて、力強き牛かなと見て、借りて乗り行きけるにや有りけむ。此れは河内禅師が語りしなり。此れ極めて怖しき事なりとなむ、語り伝へたるとや。」(巻第二十七第二十六「河内禅師の牛、霊の為に借らるる語(こと)」)播磨守佐伯公行という人の子で佐大夫▢という四条高倉辺りに住んでいた者は、いまいる顕宗という者の父である。その佐大夫が阿波守藤原定成朝臣のお供をして阿波に下っている時、船が遭難し守(かみ)と共に死んでしまった。その佐大夫は河内禅師という人の親類であるということである。その頃、この河内禅師の家で黄斑の牛を飼っていて、知り合いが借りに来たので淀へやったところ、樋集橋(ひづめばし)の上で牛飼いが下手をしたため車の片輪が橋からはずれ、そのはずみで車が川に落ちそうになったのを、「車が落ちてしまう」と思ったのであろうか、牛は踏ん張り動かず立っていたため、ついに鞅(むながい)が切れ、車は落ちて壊れてしまった。牛はこの期に及んで橋の上に踏みとどまったのである。誰も車に乗っていなかったのでさいわい怪我をした者はなかった。ひ弱な牛であったら車と一緒にどうにかなってしまっていたにちがいない。それでこの牛を知る者は褒めたのである。そのようなことがあってこの牛を大事に飼っていたのであるが、どうしていなくなったのか誰も知らぬまま牛はいなくなった。河内禅師は、「これはどうしたことだ」と探し回ったけれども見つからず、逃げたのかもしれないと近所から遠くまで探させたがどうしても見つけることが出来ずほとほと探しあぐねていると、河内禅師の夢に、あの死んだ佐大夫が現れ出て来たので、河内禅師が、「海に落ちて死んだと聞いた者がどうしてやって来たのだろう」と、夢心地にも怖ろしく感じながら恐る恐る顔を合わせると、佐大夫はこう云った、「私は死んでからこの家の北東の隅におりましたが、日に一度樋集橋の袂に行って苦を受けております。しかし私の罪が深いせいか身体がとにかく重くてとても乗り物には乗れず、歩いて参るのですがとても苦しくてならず、この黄斑(あめまだら)の御車牛なら力が強く私が乗ってもびくともしませんでしたので、暫くお借りして乗せていただいておりましたが、あなたが大変お探しなさっておいでですので、これより五日の後、六日目の巳の刻(午前十時)頃、お返し申し上げるつもりおります。あまり大騒ぎしてお探しなさいますな」こう夢に見て醒めた。河内禅師は、「こんな不思議な夢を見ました」と人に語って、牛を探すのをやめた。そしてそれからその夢を見た六日目の巳の刻頃、その牛は突然どこからともなく姿を現わし門の中に入って来たのだ。それは大変な大仕事をしてきたような様で帰って来たのである。そうであればあの樋集橋で車が川に落ちてもこの牛が踏みとどまったのをたまたま行き遭わせた佐大夫の霊が何と力の強い牛と見定め、借りて乗って行ったのであろうか。このことは河内禅師が直に語ったことだ。これはじつに怖ろしいことであると語り伝えているということである。が、怖ろしかったのはこの牛の方ではなかったか。正体の知らぬけた外れの重さのものを乗せ、その者の命ずるままどこまでも行かなければならなかったのであるから。この話の中で車の片輪が橋から外れた牛が「車の落つるなりけり」と思ったのではないかと書いている。この「落つるなりけり」と思って足に力を込め両目をひん剥いて踏ん張ったこの牛は「本物」の牛のように思える。頭悪き日やげんげ田に牛暴れ 西東三鬼。

 「父は小机をあてがわれて、字の稽古をした。新聞の記事をそのまま写したり、漢字を拾って書き並べたりした。本を読む根気はなく、読んでも理解できないようだった。父の机の上には、左手で書かれた鉛筆の字で埋まった紙切が、片寄せて重ねられていた。」(「故山」上田三四二『祝婚』新潮社1989年)

 「飯舘・長泥地区曲田一部、避難指示25年春解除へ 施設操業踏まえ」(令和6年5月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 岡崎。