黒船の黒の淋しさ靴にあり 攝津幸彦。「黒船」は嘉永六年(1853)浦賀沖に到着して以降日本が震撼激変することになるペリーの乗った米国のサスケハナ号と読むのが順当であろうが、その船の色と同じ「黒」の淋しさが黒色の革靴を指すのであろう「靴」にあるという。黒革靴のその形は確かに「黒船」に似ていて、その「黒船」が来たことによって齎(もたら)されたものであるが、では「黒」の「淋しさ」とは何か。浦賀沖に浮かぶサスケハナ号は三隻の船を従えていたとはいえ、陸から見る者からすれば目にしたことのない海の上で屹立し孤立した「淋しい」存在と見えなくもない。その触れたことのない巨大なあるいは怖ろしい異文化として日本人に衝撃を与えた「黒船」のことを思い出したのは、普段履いている黒革靴の中に足を滑らせた時ふと違和感のようなものを感じたからだ。それまで下駄や草履や草鞋を履いていた日本人が履く西洋靴の違和感とは、ある日海の向こうからやって来てぽつんと海の上に浮かんでいた「黒船」に対する最後まで残る分かち合えなさであり、その分かち合えない、分からないあるいは理解の及ばない黒い存在としての淋しさである。北嵯峨に二つの天皇の陵(みささぎ)があり、一つは藪の中にある第九十一代後宇多天皇の陵で、もう一つ、朝原山にある第五十二代嵯峨天皇陵の山裾の登り口の日蔭で漕いで来た自転車を停めていると、後ろから「これから」と声をかけて来る者がいる。声をかけた男も自転車に乗っていてこれから陵に登るのだと云う。三ケ月前に腰のコルセットが取れ、向こうの丸太町を渡ってここまで十分ぐらいだから運動に毎日登りに来ていて、いまは八十四だが九十までは登るつもりだと、丸みをおびた腹を覆う黄土色の褪せたTシャツの上に水色の格子柄の半袖を羽織ったその男が続ける。それからペダルの上に載せているこちらの安物の運動靴にニ三度目をやりながら、自分が履いている灰色がかった黒い運動靴をペダルからやや持ち上げ、この靴は今日下ろしたばかりだと云い六千三百円したと「打ち明け」、前は底の薄いものを履いていたがここの急階段は登山靴のように底の厚い方が登り易いと云ってもう一度持ち上げてみせる。登るのが遅いし階段は狭いから人とすれ違う時はこっちが立ち止まって先に行かせている。上の陵で時々おばちゃん達が弁当を広げながらおしゃべりしているは嫌だな、と話し込むその男の傍らを年配の女が後ろから通って行くと、男は、「もう登ったの」と声をかける。女は階段は降りるのが怖いから脇の坂を下って来ましたと丁寧な言葉遣いで応え、階段の登り口の傍らに停めておいた自転車に寄る。と、今度は男の年寄りが歩いてやって来たのを目にすると、「これから」と声をかけ、降りた自転車を路上のその場に停め、真新しい靴の履き心地を確かめる如く大股でその年寄のそばに寄って行く。「「あんた戦争がすんだ時、年なんぼやった。」「空襲の前の日の昼間生まれた、いうて聞きましたけど。」「こうつと、ほんなら酉やな、三十三かいな。」「ま、そうです。」「うちは二十七で終戦や。」「はあ。」「ほの時、うちは泉州の岸和田におったんやけど、すぐに大阪へ出て来て、そなな年で進駐軍相手のパンパンや。」あッと思った。「なんやいな、ほなな顔して、パンパンがそない珍しいんかいな。」「いや━━。」私はこの女の冷たい手の感触を思い出した。「うちはアメリカさんから毟り取った銭にぎって岸和田のお父ちゃんのとこへ帰ったんや、赤いハイ・ヒールはいて。あ、そのハイ・ヒールもアメリカさんに買うてもろうたんやけど。そしたらお父ちゃんどない言うた思う。」「……。」「ええ靴やの。それだけ。」私はこの女が何を言いたいのか分からなかった。けれども、この女が己れの生の一番語りがたい部分を告げていることだけは確かだった。」(『赤目四十八瀧心中未遂車谷長吉 文藝春秋1998年刊)この赤いハイ・ヒールも淋しい靴である。

 「ぼくたちは苔やサルオガセモドキが生い茂った松林を抜けて、世界のへりのように白い道に沿った、休閑中の綿畑の間を走った。水車場のでこぼこした影の下で車を停めた。せせらぎの音や、どうにもならぬほどぎゃあぎゃあ鳴きつづける水鳥の声がした。あらゆるものの上に、どこへでも━━こわれた黒んぼ小屋のなかへも、自動車のなかへも、心の砦のなかへも染みとおろうとする光が輝いていた。」(「南部最後の美女」フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド 永岡定夫訳『フィッツジェラルド作品集2すべて悲しき若者たち』荒地出版社1985年)

 「福島県出生率1.21、7年連続で減、過去最低 9000人割れ目前」(令和6年6月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北嵯峨。