左大臣藤原時平が延喜九年(909)三十九歳で亡くなった時、延喜三年(903)に亡くなった菅原道真の祟りに違いないと都人(みやこびと)の口に上ったのは、「891(寛平3)年(関白藤原)基経が死去すると、宇多天皇は基経の長男時平の対抗馬として、当時文人・学者として名高かった菅原道真を抜擢し、道真は続く醍醐天皇の時代に右大臣にまで昇ったものの、901(延喜元)年時平の陰謀によって大宰府に左遷され、その地で死去した。」(『詳説日本史研究』山川出版社1998年刊)という経緯(いきさつ)を都人が思い出したからで、時平の長男保忠、次男顕忠も道真の怨霊を怖れながら日日(にちにち)を送っていたという。この次男顕忠が富小路右大臣として『宇治拾遺物語』に出て来る。「今は昔、小野宮殿(左大臣藤原実頼)の大饗に、九条殿(実頼弟師輔、右近衛大将)の御贈物にし給ひたりける女の装束に添へられたりける紅の打ちたる細長(砧で打って艶を出した袿(うちぎ)に似た衣服)を、心なかりける御前の、取りはづして、遣水(やりみず)に落し入れたりけるを、すなはち取りあげて、うち振るひければ、水は走りて乾きにけり。その濡れたりける方の袖の、つゆ水に濡れたることも見えで、同じやうに打目(砧で打ったあと)などもありける。昔は、打ちたる物は、かやうになんありける。また、西宮殿(大納言源高明)の大饗に、小野宮殿を、「尊者(主賓)におはせよ」とありければ、「年老い、腰痛くして、庭の拝えすまじければ、え詣づまじきを、雨降らば、庭の拝もあるまじければ、参りなん。降らずば、えなん参るまじき」と御返事のありければ、雨降るべきよし、いみじく祈り給ひけり。その験(しるし)にやありけん、その日になりて、わざとはなくて、空曇りわたりて、雨そそぎければ、小野宮殿は脇より上りておはしけり。中島に、大きに木高き松一本立てりけり。その松を見と見る人、「藤のかかりたらましかば」とのみ見つつ言ひければ、この大饗の日は、睦月(正月)のことなれども、藤の花いみじくをかしく作りて、松の梢より隙(ひま)なうかけられたるが、時ならぬものはすさまじきに、これは空の曇りて、雨のそぼ降るに、いみじくめでたう、をかしう見ゆ。池の面に影の映りて、風の吹けば、水の上もひとつなびきたる、まことに藤波といふことは、これをいふにやあらんとぞ見えける。また後の日、富小路の大臣(おとど)の大饗に、御家のあやしくて、所々のしちらひ、わりなく構へてありければ、人々も、見苦しき大饗かなと思ひたりけるに、日暮れて、事やうやう果て方になるに、引出物の時になりて、東の廊の前に曳きたる幕の内に、引出物の馬を引き立ててありけるが、幕の内ながらいななきたりける声、空を響かしけるを、人々、いみじき馬の声かなと聞きけるほどに、幕柱を蹴折りて、口取りを引きさげて出て来るを見れば、黒栗毛なる馬の、たけ八寸(四尺八寸)あまりばかりなる、ひらに見ゆるまで、身太く肥えたる、かいこみ髪なれば、額の望月のやうにて白く見えければ、見てほめののしりける声、かしがましきまでなん聞えける。馬のふるまひ、面だち、尻ざし、足つきなどの、ここはと見ゆる所なく、つきづきしかりければ、家のしちらひの、見苦しかりつるも消えて、めでたうなんありける。さて、世の末までも語り伝ふるなりけり。」(巻第七の六〔九七〕「小野宮大饗の事、付西宮殿・富小路大臣等大饗」)昔、小野宮殿の大饗宴の折りに弟の九条殿が御贈物になされた女の装束に添えられていた紅の打衣の細長を不注意にも侍者が取り損ね庭の小流れに落としてしまった。が、すぐに拾い上げて振り払うと、水は飛び散って乾いてしまい、その濡れた方の袖は、少しも濡れたようにも見えず、もう一方と同じように砧で打った文目(あやめ)などもそのままだった。昔の、打って艶を出した布はこのようにしっかりしていたのである。またの日、西宮殿の大饗宴の時は、「小野宮殿を主賓にお迎えしたい」ということであったが、「年のせいで腰が痛く、庭での拝礼も出来そうもないので、伺うことはかないませんが、もし雨が降るようでしたら、礼拝もないでしょうからその時は参りましょう、降らなかったら遠慮いたします」と御返事があったので、雨が降るように西宮殿は熱心にお祈りなされ、その効き目があったのか、その日になると、おのずから次第に空に雲が広がり雨が降り出したので、小野宮殿は寝殿の脇の入り口から殿内に上りおいでになった。庭の池の中の島にとても高い松の木が一本立っていた。その松の木を見た人はみな「これに藤の花が懸かっていたら」と口を揃えて云ったので、この大饗宴は正月のことであったが、藤の花を本物のように見事に作り松の梢から枝一面に隙もなくお懸けになった。えてして季節外れのものは興覚めてしまうものであるが、これは空が曇って雨がしとしと降るのに似つかわしく実に美しく見えたのである。池の面に映ったその影が風が吹くと水の上でも一緒にゆらゆらと靡けばまことに藤波とはこのことであろうかと思われたのだ。また後の日の富小路の大臣が催した大饗宴の時には、御家の中は粗末であちこちの設備もゆきとどかぬものであったので、集った人々も「さえない大饗宴」と思っていたのであるが、日が暮れ、宴も次第に終りに近づいて、客人小野宮殿への贈物の段になり、東の渡りの前に張り廻らした幕の内に贈物の馬が引き立てられていたが、その幕の内の方から嘶(いなな)く声が空に響き渡るのを聞いた人々は「威勢のよい馬の声だ」と思っていると、幕柱を蹴倒し口取りの男を引き摺って出て来た馬は黒栗毛で丈は四尺八寸以上もあり、平たく見えるほど太く肥えていて、髪を刈り込んだ額が満月のように白く見えたので、これを誉めそやすやかましいほどの声が上がった。馬の振る舞いやその顔立ちや尻の様、足つきなどこれという欠点も見当たらず、いかにも贈物としてふさわしい馬だったので、家の造作の見栄えのしないことなど皆の頭から吹き飛び、まことに立派な大饗宴に終わったのである。それで世の末までも語り伝えるのである。富小路右大臣藤原顕忠の「御家のあやしくて、所々のしちらひ、わりなく構へて」いたのは、菅原道真の怨霊に祟られぬよう目立たず質素に暮らしていたためなのである。京都御苑丸太町通から渉成園の上珠数屋町通まで南北に走る富小路通(とみのこおじどおり)は、平安京富小路ではない。富小路通の一つ東の麩屋町通平安京富小路であり、富小路通豊臣秀吉の改造の手により平安京万里小路、いまの柳馬場通富小路の間を真っ二つに通して出来た新たな通りである。この通りは、「始め下立売まで通ぜしが宝永五年(1708)皇宮地に入るを以て、丸太町まで閉塞す。其間になりし町家を川東仁王門に移動せむ。今尚ほ新富小路と云ふ。」(『京都坊目誌』)この丸太町通から上を寸断された短い新富小路通はいまも仁王門通孫橋通に挟まれた讃州寺町に残っている。その東は新柳馬場通で西が新麩屋町通である。

 「考ふることもまぶしき薄暑となる 細見綾子。」

 「福島県沿岸漁業の新規就業者26人 23年度、09年度以降最多」(令和6年5月28日)

 富小路通富小路広場。