二條城から東へ、堀川通と堀川を渡り夷川通(えびすがわどおり)を入って暫く行くと左手、北側に滑り台シーソー鉄棒ブランコ砂場の揃った夷川児童公園があり、中に「陽成院跡(ようぜいいんあと)」と書いた案内板が立っている。「この夷川公園一帯には、南北二町(二五二m)に及ぶ陽成院と呼ぶ邸宅があった。元慶八年(八八四)二月、譲位した陽成上皇は内裏からこの邸に遷幸して御所とし、母の皇太后藤原高子も渡ってきた。上皇の崩御後は二分割され北町は一般の住宅に、南町は荒廃に任せた。」この陽成院に「浦島太郎」の弟が化けて出たという話が残っている。「今は昔、陽成院おりゐさせ給ひての御所は、宮よりは北、西洞院よりは西、油の小路よりは東にてなんありける。そこはもの住む所にてなんありける。大きなる池のありける釣殿に、番の者寝たりければ、夜中ばかりに、細々とある手にて、この男が顔を、そとそと撫でけり。けむつかしと思ひて、太刀を抜きて、片手にてつかみたりければ、浅葱(あさぎ)の上下(かみしも)着たる翁の、ことのほかに、ものわびしげなるが言ふやう、「われはこれ、昔住みし主なり。浦嶋の子が弟なり。古よりこの所に住みて、千二百余年になるなり。願はくば許し給へ。ここに社を造りて、いはひ給へ。さらば、いかにもまもり奉らん」と言ひけるを、「わが心一つにてはかなはじ。このよしを院へ申してこそは」と言ひければ、「憎き男の言ひごとかな」とて、三度上ざまへ、蹴上げして、なへなへくたくたとなして、落つるところを、口をあきて喰ひたりけり。なべての人ほどなる男と見るほどに、おびただしく大きくなりて、この男をただ一口に喰ひてけり。」(『宇治拾遺物語』「陽成院、妖物の事」)陽成院の庭の大きな池に突き出た釣殿で、警護の者が居眠りしたまま夜になって、か細い手がこの男の顔をそっと触れるような手つきで撫でた。薄気味悪い思いで目を覚ました男が咄嗟にその手を掴んで刀を抜けば、浅葱色の上下の衣を着たみすぼらしい年寄りが立っていて、こんなことを云い出した。「わたしはかの丹後水の江の浦嶋子の弟で、千二百年以上前からここに住んでいる者である。どうかご無礼お許しを。改めてお願い申し上げる。この地に社を建ててわたしを祀って下さるならば、どのようなことがあってもお守り通して差し上げます。」これを聞いて警護の男は、「おれの一存で決められるようなことではない。陽成院様に申し上げたうえでなければ。」と応えると、年寄りは、「癪に障るナメた野郎の云い草だ。」と云うと、どこにでもいるような姿かたちがみるみる大きくなって、警護の男を何度も足で蹴り上げ、正体をなくしたところをその大口を開け、一口で喰ってしまった。天台座主慈円の『愚管抄』に、第五十七代陽成天皇を巡るこのような記述がある。「コノ陽成院、九歳ニテ位ニツキテハ年十六マデノアイダ、昔ノ武烈天皇ノゴトクナノメナラズアサマシク(常軌を逸した異常なる様)オハシマシケレバ、オヂニテ昭宣公基経(陽成天皇の母高子の兄、藤原基経)ハ摂政ニシテ諸卿群儀有テ、『是ハ御モノゝケノカクアレテオハシマセバ(物の怪が取り憑いている)イカガ国主トテ国ヲモオサメオハシマスベキ』トテナン、ヲロシマイラセントテ(譲位させること)ヤウヤウニ沙汰有リケルニ」化け物に取り憑かれているかもしれない天皇にこれ以上国を治めてもらうわけにはいかないとされ、十七歳で譲位した陽成上皇は、それから六十五年もの長い晩年を過ごさなければならなかった。『宇治拾遺物語』の「陽成院、妖物の事」は、「御モノゝケノカクアレテオハシマセバ」とされた陽成上皇の死後、その荒廃した屋敷を目にした者らの口の上に生まれた話である。が、奇妙なのは「浦嶋の子の弟」と称する年寄りの妖物である。釣り糸に掛かった五色の亀が亀比売(かめひめ)に変身し、浦嶋子はその亀比売に果ての島蓬莱山に連れて行かれ、そこで極楽の三年を過ごした後、故郷の親恋しさにこの世に戻れば三百年の月日が経っていて、約束を破って亀比売から貰った玉匣を開ければ、湧いた煙を浴びて己(おの)れの若い肉体が奪われてしまう。「水の江の浦嶋の子が玉匣開けずありせばまたも会はましを」という目に遭った浦嶋子に実の弟がいたとしても、浦嶋子を記した『丹後国風土記』にその記述はなく、この年寄りの云った言葉以外の手掛かりは何もない。が、この「弟」を「弟子、門人」という意味から引き伸ばし、先人の「後続者」として「浦嶋子」と同じ目に遭った者とすれば、この年寄りは玉匣を開けてから千二百年経っても死なずにいる者ということになる。極楽浄土に退屈し、戻って生き返った、死んでも死にきれない者である。であるから社に祀って魂を鎮めて欲しいと頼んだのであるが、警護のもの云いは年寄りの癇に障った。警護の男の応えは、社会常識を弁(わきま)えた穏当な応えであった。が、「浦嶋の子の弟」はそのもの云いが癪に障った。癪に障っただけでなく、喰い殺してしまった。杓子定規に扱われた者の凄まじい憎悪である。果たして陽成上皇も杓子定規に扱われたのかもしれぬ。が、普通の者こそが杓子定規に扱われるのである。京都府立植物園の桜は葉桜になり、椿は花を落とし、大方の薔薇はまだ蕾で、いまは緑胡蝶、心紅などと名のついた牡丹が花を咲かせている。恐らくはどれも幾たびも手を加えられ、均した地べたで行儀よく育てられたものであるが。白牡丹総身花となりにけり 相馬遷子。牡丹花に虻が生きたるまま暮るる 永田耕衣。
「(映画の)この再現された世界のいくぶん見慣れない様相が、同時に、われわれをとりかこむ世界の見慣れない性格を啓示してくれる。われわれの理解の習慣と、われわれの秩序とに、順応することを拒むかぎりにおいて、われわれの世界もやはり、見慣ない世界だからである。」(「未来の小説への道」アラン・ロブ=グリエ 平岡篤頼訳『新しい小説のために』新潮社1967年)
「福島県、海域の監視強化へ 処理水放出、モニタリング調整会議」(令和3年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)