咳暑し茅舎小便又漏らす 川端茅舎。病気を抱えていた川端茅舎の自虐の句である。自分は暑さからも、小便を漏らしてしまう肉体からも逃れることが出来ない、ということを茅舎は嘆いているのでもなく、諦めているのでもなく、茅舎という者はそういう男なのだと茅舎は「茅舎」を受け入れているのである。すれちがうときわれ片蔭よりはみ出づ 篠原 梵。逃れられない暑さから、それでもどうにかして逃れようと人は通りの片陰を選んで歩く。片陰や萬里小路(までのこうじ)に蟬鳴くも 赤尾兜子。「万里小路」という名の通りは手元の地図を探してもなく、司馬遼太郎と大学の同級生だった赤尾兜子も「万里小路」を歩いていない。が、「万里小路」は、たとえば安永九年(1780)に出た『都名所図会』の「島原傾城(けいせい、遊女)町」の記述に次のように出て来る。「島原傾城町は朱雀野にあり。この所上古(じょうこ、大昔)は鴻臚館(こうろくわん、外国使節を接待した施設)の地なり。中頃は歓喜寿院の封境にして、西口の畠の字を堂の口といふ。また傾城郭は万里小路、今の柳馬場なり、二条の南、方三町なり。その先は東山殿、義政公、遊宴の地なり。天正十七年(1589)原三郎左衛門・林又一郎といふ浪人、上訴によつて傾城町を免許せられ、一の郭をひらきしなり。地名を新屋敷と号し、また柳の双樹あれば柳町とも称す。今の出口の柳はこの遺風なり。それより十三年を歴(へ)て慶長七年(1602)に六条へ移され、今の室町・新町・西洞院・五条柳通の南にて、方二町の郭なり。中に小路三通ありしにより三筋町と号す。六条通、今の魚棚なり、西洞院川にかくる石橋は、傾城町の入口にして、この時かけ初めしなり、今にあり。また室町五条の南、西側、醞匠(おんしょう、酒屋)の居宅異風なり。この時の忘八(くつは、遊女屋)にして、今に存せり、また寛永十八年(1641)に今の朱雀野へ移さる。島原と号(なづ)くることは、その頃肥前の島原に天草四郎といふもの一揆を起し、動乱に及ぶ時、この里もこゝに移され騒しかりければ、世の人島原と異名つけしより、遂にこの所の名とせり。」足利氏の遺臣原三郎左衛門と林又一郎豊臣秀吉の認可を得てはじめて公許の遊里を開いた場所が万里小路二条の「万里小路の廓」あるいは「二条柳町」であり、その時の通り名は平安京から続く万里小路であり、「いま」の柳馬場(やなぎのばんば)という名ではなかった、というのである。現在の名はこの柳馬場通である。時代を遡れば、万里小路にはかつて、紀貫之が住み、『源氏物語』の光源氏のモデルともいわれる源融(みなもとのとおる)が住み、足利二代将軍義詮(よしあきら)、三代義満、四代義持の邸宅があり、下って江戸期には肥前有馬藩、小倉小笠原藩、米沢上杉藩、秋田佐竹藩の屋敷があった。柳馬場通の謂(いわ)れは、『日本歴史地名大系27 京都市の地名』にこう書いてある。「慶長九年(1604)の豊国神社(豊臣秀吉を祀る)臨時祭に、高倉通から鴨川にかけての二条通筋に広がっていた原野(※万里小路の廓の跡)で馬揃が行われ、その際に柳樹が植えられ整地されたことから、柳馬場の名称が冠せられたといい、馬揃当日の模様は豊国臨時祭礼図屏風にも描かれている。」(平凡社1979年刊)夏のある日、赤尾兜子司馬遼太郎柳馬場通を歩いている。赤尾は司馬から、この通りがかつて万里小路という名だったと教えられる。片陰に入って日差しを逃れた赤尾に耳に、蟬の声が急に迫って聞こえて来る。蟬の声は、遥か昔に消えた万里小路の時代から延々と交尾を繰り返し命を繋いで来た時間を貫く鳴き声である。快き暑さも曾(かつ)てありしかど 相生垣瓜人。

 「私は思いどおりになることに対して否定的なのではなく、自分が状況に巻き込まれることが本来のあり方である夢に能動的であることがおかしい。私というのか自分というのか主体というのか、呼び名はよくわからないが受動的であることによって私は素通しになったり前もって容量が決まっていない容れ物になったりすることができる。容れ物よりも筒抜けの筒の方が私はイメージに近い。」(『読書実録』保坂和志 河出書房新社2019年)

 「原発処理水放出設備工事始まる 東京電力、海底トンネルを掘削」(令和4年8月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)