京都に生まれ住む者は、京都御苑を「キョウトギョエン」ではなく、ただ「ゴショ」と云う。それはかつての天皇の住まいであった御所がここにあるためであるが、明治天皇が東京へ去り、回りを取り巻くように建っていた公家の空き家が壊され、木が植えられて公園になっても、それは御所の範囲が広がったようなものであり、わざわざ御苑と呼ぶ必要はないということなのである。それを役所がつけた御苑と呼ぶことは、御所に対する何らかの敬意、あるいは親しみを削がれる思いが、恐らく彼らにはあるのである。その御所の東南に富小路公園(とみのこうじこうえん)があり、グラウンドでは野球をしていたのであるが、正午になると、赤いアンダーシャツの者らは道具を片付け、自転車であるいは歩いて出て行き、入れ替わるように今度は、ジーパンやらセーター姿の者らが散らばってキャッチボールを始める。誰もいないその隣りのグラウンドでは、レフトの奥の生垣の間から、母親に促された幼い姉弟が、凧糸(たこいと)を握ってグラウンドを駆け出し、走りながら糸の先の凧を振り返る。凧は十字の骨にビニールの切れ端を張ったような手作りで、それでも走れば、風を生んで揚がるのであるが、足を止めればたちまちビニールの足をひらひらさせて地に落ちる。母親が、風に向けて揚げるように二人に云う。五歳ぐらいのおかっぱ頭の姉が、母親の手の動作を見ながら、西に向かって駆けると、凧は伸びた糸を張って揚がっていく。が、ひ弱な風とビニールの切れ端では長く宙には留まらない。糸を握ってジグザグに走り回る弟は、風の向きを理解することはまだ出来ない。凧(いかのぼり)きのふの空の有り所 蕪村。昨日浮かんでいた空に、いま凧は揚がっていない。あるいは、昨日と同じところに、今日も凧が浮かんでいる。あるいは、もうひとつ別の想像は、目の前に、昨日もいまも凧の揚がっていない空がある。例えば、凧は、平らな水面に投げ入れた小石である。投げ入れたのは蕪村自らである。空に揚げた凧は、それ以前の空を過去のものとしてしまう。過去は一秒前であり、昨日である。風が已(や)めば、揚がっていた凧は空から消え失せ、凧の浮かんでいた空は、過去となり、また昨日となる。その昨日の空の、存在する所はどこか。それは凧の揚がる前であり、凧の浮かぶ空であり、それが消え失せた空である。蕪村は、投げ入れた凧によって、昨日というものを新たに見出しているのである。生まれ育った福島の田圃でも、冬の風は西から吹いていた。テンバダと呼んで揚げた凧は、近所に住む、その年の年男となった者が配ったものである。年男となった者は、前の年の詰まった頃に、男児にテンバダ、女児に紙風船を配って挨拶に回ったのである。田圃には、カスミ網が張ってあった。カスミ網には、逆さまに羽を垂らした鶫(つぐみ)や雀が掛かっていた。テンバダは、そのカスミ網に掛からないように、鳥が嘴から血を流してぶら下がる網を背に、東の空に揚げたのである。富小路公園の凧揚げは、姉の凧が昨日の雨の水の溜りに落下し、後ろ向きで走って来た弟がそれを足で踏んで壊して仕舞いとなった。富小路公園の名は、御所の南の丸太町通と上数珠屋町通の間を南北に走る富小路通から来ている。富小路通は、豊臣秀吉天正の地割により、平安京に引かれていた富小路万里小路(までのこうじ)の間に通された道であり、その東となった富小路麩屋町通(ふやちょうどおり)に、万里小路柳馬場通(やなぎのばんばどおり)と名を変えている。富小路通仏光寺通まで下がり、西へ烏丸通を越してすぐの釘隠町が、蕪村の終焉の場所である。蕪村から見れば、富小路公園で姉弟が凧を揚げていた空は、遥か大未来の空であるが。

 「経験をかさねていかなければ生きられないが、経験がすべてだろうか。たとえば戦争体験みたいなもの、ぼくはインチキくさいとおもう。なんだか固定されているみたいだからだ。体験や経験は、体験をもち、経験をもつ。ところが、<もつ>というのを、ぼくは信用しない。もっていられるものもウソっぽい。ブーバーが言う<内容>みたいなものだろうか。この手でしっかりもっているものしか信用できない、と言う人はおおいだろう。しかし、くりかえすけど、そういう<もの>がなくては生きられないかもしれないが、<もの>ではウソになることもあるのではないか。」(「I・Dカード」田中小実昌『カント節』福武書店1985年)

 「福島第1原発・2号機に「溶融燃料」 格納容器の底部で初確認」(平成30年1月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)