祖母山(そぼさん)も傾山(かたむくさん)も夕立かな 山口青邨。祖母山も傾山も大分と宮崎の県境にある山で、作者は遠い場所からこの二つの山の上に黒雲が湧いているのを眺め、そう思っている。あるいは句の中の二つの「も」は、どちらの山もということだけでなく、いま作者自身も夕立に襲われてどこかの軒下に逃げ込み、見れば祖母山も傾山もまた降られているのだなと思っている。あるいはさっき作者を襲った夕立が、いまは祖母山と傾山を襲っている、ということかもしれず、いま二つの山を襲っている夕立がこれから自分のところにやってくるかもしれないぞ、と思っているのかもしれない。白雨(ゆふだち)や筆もかはかず一千言 蕪村。この句には、「雙林寺(そうりんじ)独吟千句」の前書きがある。三日かけて一千句を人前で詠んでみせるという俳諧興行があった。蕪村の知り合いが雙林寺で独吟千句に挑み、夕立のさ中に、まるで夕立の勢いさながら口から句を吐いて、見事千句を成し遂げた、と蕪村は祝いの言葉を送ったのである。井原西鶴は、延宝三年(1675)二十五歳で亡くなった妻のため一日で一千句を詠んだという。その句は、たとえばこうである。「引導や廿五(二十五)を夢まぼろ子規(しき)、尻かしらからくる螢火。影うすき頭巾の山に晨明(ありあけ)の、枯野の尾花ちりめんのきれ。木々の枝いろはにほへと書つゝけ、露もしくれも古手商ひ。守山の月も西へやたふれ者、椀箱すり鉢水壺水海。高いひき心のまゝに波まくら、鷹の羽かせに横手うたるゝ。ひつしりと乙矢はねがふ所にて、御前と申ことに若者」その二年後の延宝五年(1677)、西鶴は一日に千六百句詠む。「思ひと苦とをつくる絵双紙、通ひ路は二条寺町夕詠(ゆふながめ)、川原の床は小歌三味線」貞享元年(1684)、西鶴は凄まじい言葉の執念で一昼夜に空前絶後の二万三千五百句を詠み、後に戯作者となるのである。東山円山雙林寺は、延暦二十四年(805)の創建で数万坪の敷地があったというが、慶長十年(1605)の高台寺の造営、承応二年(1653)の東大谷祖廟の造営、明治十九年(1886)の円山公園の造営、昭和二年(1927)の円山音楽堂の建設のため敷地のほとんどを奪われ、小さな堂宇と地蔵堂だけになったが、いまはその堂宇と地蔵堂の間に石材屋の作業小屋と百十万の値を貼った墓石の見本が幾つか並んでいる。東大谷祖廟の墓地の斜面には一万の墓が並んでいるという。盂蘭盆の時期には万灯会と称して、夜蝋燭を灯した無数の四角い灯籠が墓の上で揺れる。十六日、夕立の来そうな雲行きの午後、杖を突いた老人とその息子のような男が、東大谷の墓地の門の前で足を止める。老人は息のあがった様子である。下河原通の入り口から門まで、緩く上り緩く曲がる石畳の参道は三百メートルほどの長さがある。石段を上って門を潜っても、その先は上り坂と石段しかない。息子のような男がその父親のような老人に、「やめようか」と訊く。老人はやや背中を伸ばし、門を見上げ、「ああ」と応えると、二人は来た道を戻って行った。この老人は己(おの)れの体力を鑑み、以後墓参りに来ることはないのではないか。そのような後ろ姿であった。この八月十六日の夜、八時に点火するはずの五山大文字の送り火は雷雨で点火が遅れ、最後の順で灯る金閣寺上の左大文字が、今年は初めに灯った。

 「滿目の稻田。綠の色が淡い。津輕平野とは、こんなところだつたかなあ、と少し以外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行つてみたが、裏日本の草木の綠はたいへん淡く、土は白つぽくカサカサ乾いて、陽の光さへ微弱に感ぜられて、やりきれなく心細かつたのだが、いま眼前に見るこの平野も、それと全く同じであつた。私はここに生れて、さうして、こんな、淡い薄い風景の悲しさに氣がつかず、のんきに遊び育つたのかと思つたら、妙な氣がした。」(「歸去來」太宰治太宰治全集 第五巻』筑摩書房1956年)

 「核ごみ問題、自分事に 交流事業、福島県の高校生と寿都町長対話」(令和4年8月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)