北嵯峨の広沢池の西に広がる田圃に、案山子(かかし)が十体余り並んで立っている。色とりどりの古着を身につけた案山子の立つその辺りの田圃の稲は、「祝」という酒米で、収穫の後伏見の酒蔵で大吟醸「げっしょう」になるという。落つる日に影さへうすきかがしかな 加舎白雄。夕日を浴びた案山子は人の偽者であるということが、出来たその影の薄さから分かるのである、という。が、案山子運べば人を抱ける心あり 篠原温亭。物の音ひとりたふるる案山子かな 野沢凡兆。倒れたる案山子の顔の上に天 西東三鬼。案山子は人に似せて作るものであるから当然の如く「人のよう」であり、そうであるがゆえに倒れた案山子は、それが本物の人であれば寄って助け起こすこともあろうが、倒れたまま藁を詰めた顔に描かれた目で天を見るばかりで、その場に居合わせた者にただの「あはれ」とも違う感情を催させる。男ばかりと見えて案山子の哀れ也 正岡子規。案山子は男と相場が決まっていて、そのことが何とも「哀れ」であるという。が、阿波野青畝は、西行の女に似たる案山子かな、と女の案山子の句を詠んでいる。西行、本名佐藤義清(のりきよ)、下北面の武士で保延六年(1140)二十三歳で出家し嵯峨にも住まいを持った世捨ての歌人は、妻子があったともなかったともいわれているが、『源平盛衰記』『西行物語』には妻子があったこととして書き記されている。「━━(西行が)これこそ煩悩の絆よと思ひとり、(娘を)縁より下へ蹴おとしたりければ、泣き悲しみたることも耳にも聞きいれずして、うちにいりて今夜ばかりの仮の宿ぞかしと思ふに、涙にむせびてぞあはれに覚えける。女房は男には猶(なほ)まさりける人にて、かねてより男の出家せんずることを悟りて、この娘の泣き悲しむを見ても驚く気色のなかりけるこそあはれに見えけれ。」(『西行物語』)西行の「女房は男には猶まさりける人」であるとすれば、阿波野青畝のいう案山子は男まさりのような女の案山子ということになるのであるが、それがどのような姿かたちであるのか具体的にはいまひとつ思い浮かばない。西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋あらふを見るに、芋洗ふ女西行ならば哥よまん 芭蕉西行谷は伊勢神路山の南にあり、西行が庵を結んだところであるといい、西行はここで江口にいた遊女と歌のやりとりをしていて、ここを訪れた芭蕉は、私がもし西行であったならば、あの芋を洗っている女ですらきっと歌のやりとりをしたであろう、が、私の如き者とはそのようなやりとりをする気配もない、と嘆くのである。たとえばこの芭蕉の句を些(いささ)か強引に踏まえれば、阿波野青畝のいう女の案山子は、西行と歌のやりとりをした行きずりの女のように「私」と句の手合わせをしてくれるような案山子だ、と解釈できないこともない。芭蕉の弟子、広瀬惟然に、近づきに成りて別るゝ案山子かな、の句がある。惟然が出会った案山子は、別れを惜しむような案山子だったのである。一本の棒を抜くごと案山子抜く 下平しづ子。

 「京都の町家には、一つの平入屋根が、内部平面を取り込む型式があります。この場合、表通り側の軒髙を低くして厨子二階にしながら、敷地奥の軒髙は本二階建て並に高くして、内部の天井高さを確保する町家が多くあります。そしてもうひとつ、表通りに店舗棟を独立させ、敷地奥に居室用の別棟を置いて、店舗棟との間に廊下と坪庭を入れる「おもて造り」の型式があります。こちらは、店舗棟を厨子二階に、敷地奥の居室棟を本二階建てにして、店舗棟との間に廊下と坪庭を入れて通風・採光に用いるのです。」(『京都の町家と町なみ』丸山俊明 昭和堂2007年)

 「デブリ搬出23年度後半に 第1原発2号機、当初計画から2年遅れ」(令和4年8月26日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)