南で梅の花が咲く梅小路公園の北の隅にスケートリンクがある。大きさは縦五十メートル横十四メートルとある、四方をフェンスで囲っただけの野外のリンクである。平日の寒風の吹く午後に誰も滑っている者がいないのは、まだ開く時刻の二時になっていないからであるが、いまこの辺りを歩いているのは犬を連れた老人の夫婦らしき者と、よちよち歩きの着ぶくれの子と手をつないでいる若い男だけである。遠くの北の空に晴れ間があっても、真上にある日は暫く雲の陰になっていて、スケートリンクは工事の中断した空地の現場のように寒々しく佇んでいる。山口誓子に、スケートの紐むすぶ間も逸(はや)りつゝ、という世に知られた句があるが、「紐むすぶ間も逸りつゝ」はなるほどそうであると思わせるが故(ゆえ)に、こう詠んでしまえば平凡な歌謡の一節のようで俗な後味を免れない。スケート場沃度丁幾(ヨードチンキ)の壜がある。これは教科書で憶えた同じ誓子の句であるが、ものがあるだけの異様な詠みっぷりが忘れがたい。スケートの濡れ刃携え人妻よ 鷹羽狩行。俗の最たるような「人妻」という言葉は、作者が自分の妻をそう詠んだことで、俗であることから際どく免れている。作者はスケート場で息弾ませる妻の若さを改めて感じ、その女が自分の「人妻」であるということを誇らしく誰に恥じることなく詠んでいることがこの句の新鮮さであった。鳶の翼スケートの人ら遥か下に 渡辺水巴。この句のような野外のスケートリンクでは、このような光景もテレビのニュースで流れたりする。神官のスケート履きて湖祓ふ 須賀允子。マイケル・クレトウが率いるエニグマの曲、「ビヨンド・ジ・インビジブル」のミュージック・ヴィデオに印象深いスケートの場面があった。父親に叱られ家を飛び出した少女が森に迷い込み、そこでは若い男と女がそうしていなければ死んでしまうような切実さで舞うように樹の回りを滑っている。森には邪悪な森の精がいたり、何者とも分からぬ異星人のような者らもその二人の滑りを見守っている。少女は見てはいけない、そうであるが故に美しい二人の姿に目を奪われ、やがていまはまだ見ることの出来ない森の、心惹かれるその向こうへ異星の者に導かれ行く。二時を待つ梅小路公園スケートリンクには、屈んで靴紐を結んでいる者も人妻とその夫も神官も森の精も氷の精もいない。二時になってもこのまま打ち捨てられたようなままであるのかもしれぬ。が、管理者の手を煩わせることなく氷は今日の寒さに氷でいることを保ち続けるには違いない。

 「そのヒトが私の家へきたのは日曜日のしずかな午後だった。梅の花が咲いていた頃だから二月のはじめだったろう、陽ざしが強く暖かい日で私は退屈していて外にいたから玄関の前で顔を合わせてしまった。「そこの工場へ出稼ぎに来ている者です。用事があるのではないのですが」というような挨拶を言っている。東北なまりの発音で、だいたいの意味はわかるが、東北弁の丸だしをきくと、はじめて逢ったヒトだがなんとなく安心した。」(「みちのくの人形たち」深沢七郎『みちのくの人形たち』中央公論社1980年)

 「「3.11クロック」震災4000日の節目刻む 三春・コミュタン福島」(令和4年2月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)