グーグルマップは北野天満宮の一の鳥居から真っ直ぐ南に伸びる御前通の一筋東の狭い通りを相合図子通と記しているが、昭文社の地図(2014年刊)では下ノ森通(しものもりどおり)となっている。下ノ森通という名はいまの上京警察署の辺りの門前一帯が下ノ森と呼ばれていたからで、かつてはその一条通から仁和寺街道の間を又之辻子、仁和寺街道から下長者町通の間を三太夫辻子、下長者町通から下立売通の間を藍屋辻子と呼ばれていたが、『京都坊目誌』は「藍屋辻子、北は一條に起り、南は下立賣通一町下るに至り、葛野郡界に接す。開通年月及び街名起原詳(つまびらか)ならず。一に相合ノ辻子に作る。」と云い、一条通から下立売通の先まで藍屋辻子で、この通りの一部は相合辻子であるとしている。藍屋辻子の謂(いわ)れは西に紙屋川の流れが近く、水を流す染物屋の名から来ているようであり、三太夫辻子は三太夫という名の知られた者が住んでいたのかもしれぬ。相合辻子の相合で思いつくのは相合傘である。鈴木春信に「雪中相合傘」と題する浮世絵がある。頭巾から着物まで黒ずくめの男と白ずくめの女が雪降る柳の傍らで斜めに差した一本の傘の下に身を寄せ合っている絵である。立本寺は「又之辻子」沿いにある寺であるが、この寺の墓地に灰屋紹益の墓がある。灰屋紹益は吉野太夫を身請けして評判をとった藍染用の紺灰を商う商人だった。灰屋紹益と吉野太夫の差す傘は、世を憚(はばか)らぬ相合傘である。「「赦す事はいい。実際それより仕方がない。……然(しか)し結局馬鹿を見たのは自分だけだ。」下の森から京電に乗る習慣で、その方へ行つたが、丁度北野天神の縁日で、その辺は大変な人出だつた。彼(時任謙作)は武徳殿の裏から終点の方へ行つた。然しそこも大変な人で、飴売り、風船売り、玩具屋、アイスクリーム屋などで馬場の方まで賑はつてゐた。覗絡繰(のぞきからくり)が幾つか鳥居の前の広場に並んでゐた。「八百屋お七」が「金色夜叉」や「不如帰(ほととぎす)」に更(かは)つてゐるだけで、人物の眼ばりをした緞帳くさい顔や泥絵具の毒々しい色彩まで、昔と少しも変らなかつた。彼は千本通から市電に乗るつもりで上七軒へ入つて行つた。「つまり、此記憶が何事もなかつたやうに二人の間で消えて行けば申分ない。━━自分だけが忘れられず、直子が忘れて了(しま)つて、━━忘れて了つたやうな顔をして、━━ゐられたら━━それでも自分は平気で居られるかしら?」今はそれでもいいやうに思へたが、実際自信は持てなかつた。お互いに忘れたやうな顔をしながら、憶ひ出してゐる場合を想像すると怖しい気もした。」(『暗夜行路 後篇』志賀直哉志賀直哉全集 第四巻』岩波書店1999年刊)志賀直哉は、下ノ森から真西へ五百メートル余のところに大正四年(1915)の一月から四月の間住んでいた。『暗夜行路』のこの場面は、時任謙作が用を足しに朝鮮に行っている間に、初めて産んだ子をひと月で亡くした妻直子が従兄と「間違い」を犯していたことを聞いた翌日の場面である。時任謙作は、己(おの)れの母方の祖父母が養父母の母をよく知る女の娘で幼馴染みだった愛子との結婚の意思を父親に伝えると、愛子は謙作の父親の仕事で通じた者のところへ忽(たちま)ち嫁にやらされ、謙作はそのことなどもあって尾道へ居場所を移し、今度はそれまで東京で一緒に暮らしていた祖父の妾だったお栄に、兄信行を通して結婚を申し込むが、お栄に断られる。その兄の手紙から謙作は、己れが祖父と母の間に出来た子であることを知るのである。その果てが謙作の京都行きであった。直子は府立医大に治療に来ていた叔父に付き添い、鴨川に架かる荒神橋の袂の宿に泊まっていた女で、謙作が河原から見かけ、一目惚れし、伝手をたどって手に入れたのである。「私、文学の事は何も存じませんのよ」と直子は云った。謙作は、「知らない方がいいんです」と応えるが、「寓居へ帰つて二人は暫く休んだ。直子は次の間の本棚を漁りながら、「どういふ御本を読んだら、よろしいの?」とまたこんな事を云つて居た。」(『暗夜行路 後篇』)二人は初めの住まいの南禅寺北の坊から衣笠村の新築二階建に移る。「彼は二階に書斎をきめた。机を据ゑた北窓から眺められる景色が彼を喜ばした。正面に丸く松の茂つた衣笠山がある。その前に金閣寺の森、奥には鷹ヶ峯の一部が見えた。それから左に高い愛宕山、そして右に、一寸首を出せば薄く雲を頂く叡山が眺められるのである。彼はよく机に向つたまま、何も書かずにさふ云ふ景色を眺めて居た。」(『暗夜行路 後篇』)が、初めて産まれた子は丹毒が体中に回って死に、直子は従兄と「間違い」を犯してしまったのである。謙作は蟠(わだかま)りを失くすことが出来ず、直子にも後悔から先の為す術(すべ)がない。直子の再びの妊娠が分かった時、謙作はゾッとして自分の指を折ってみたのである。それで生まれた子は自分の子に違いないのであったが、心の収まりのつかない謙作は直子もその子も見捨てるように鳥取の大山に行き、寺の一間を借り、その生活に馴染んだある日御来光を拝む夜の登山に挑むのであるが、体調を崩して山腹で夜を明かし、「彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したような事を考へてゐた。彼は少しも死の恐怖を感じなかつた。然(しか)し、若し死ぬなら此儘(このまま)死んでも少しも憾(うら)むところはないと思つた。然し永遠に通ずるとは死ぬ事だといふ風にも考へてゐなかつた。」(『暗夜行路 後篇』)日が昇り目下の平地に出来た大山の影に感動して山を下りた謙作は正体を失くしたようにそのまま床に就き、寺が知らせた電報で直子が駆けつける。「(謙作が)大儀さうに、開いたままの片手を直子の膝のところに出したので、直子は急いで、それを両手で握締めたが、その手は変に冷めたく、かさかさしてゐた。」(『暗夜行路 後篇』)大山に来る前同じ床の中にいて謙作が直子の手を探した時、直子は応じなかったのであるが。『暗夜行路』に謙作と直子の相合傘の場面はないが、引っ越ししたての頃にはよく散歩をしたと書かれている二人は、下ノ森で雨に遭い、借りた傘に入って衣笠の家に帰り着くことがあったかもしれぬ。嵐電北野白梅町駅の南にあった志賀直哉の衣笠の住まいは、令和元年(2019)の八月まで人が住んでいたが、翌月取り壊され更地になった。東山低し春雨傘のうち 高濱年尾。春雨や何からいはむ嵯峨戻り 内藤丈草。

 「出口まで行けるだろう、遅かれ早かれ、もしわたしがそこに出口がある、どこかにあると言えれば、ほかの言葉はやってくるだろう、遅かれ早かれ、そして出口へ行くのに必要なもの。そしてわたしは出口へ行く、出口を通り過ぎる、そして空のさまざまな美しさを見る、そしてもう一度夜空の星を眺めるのだ。」(「反古草紙」サミュエル・ベケット 片山昇訳『ベケット短編集』白水社1972年)

 「賠償「実態に見合わず」 避難者集団訴訟東京電力の責任確定」(令和4年3月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)