仏性は白き桔梗にこそあらめ 夏目漱石。仏性(ぶっしょう)は、「衆生(一切の生きもの)が本来有しているところの、仏の本性(ほんしょう)にして、かつまた仏となる可能性の意」(『岩波仏教辞典第二版』(岩波書店2002年刊)とされているが、漱石は白い桔梗の花を見ると仏性というものをいつも思うのであるという。道元の『正法眼蔵』の第三「仏性」の末にこのようなことが記されている。「長沙景岑(ちようしやけいしん)和尚の会(ゑ)に、竺尚書(ぢくしやうしよ)とふ、「蚯蚓斬為両段(きういんぜんゐりやうだん)、両頭倶動(りやうてうくどう)。未審(みしん)、仏性在阿那箇頭(ぶつしやうざいおなこてう)(蚯蚓(みみず)斬れて両段となる、両頭倶(とも)に動ず。未審(みしん)なり、仏性は阿那箇頭(おなこてう)にか在る)」。師云、「莫妄想(もまうざう)(妄想すること莫(なか)れ)」。書云、「争奈動何(動ずるはいかがせん)」。師云、「只是風火未散(ただ是れ風火の未だ散ぜざるなり)」。いま尚書いはくの「蚯蚓斬為両段(ぜんゐりやうだん)」は、未斬時(みぜんじ)は一段なりと決定(けつぢやう)するか。仏祖の家常に不恁麽(ふいんも)なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし。両頭倶動(りやうてうくどう)といふ両頭は、未斬(みぜん)よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会(ういふうい)にかゝはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに倶動といふ、定動智抜(ぢやうどうちばつ)ともに動なるべきなり。「未審(みしん)、仏性在阿那箇頭(ざいおなこてう)」。「仏性斬為両段(ぜんゐりやうだん)、未審(みしん)、蚯蚓在阿那箇頭(きういんざいおなこてう)」といふべし。この道得(だうて)は審細にすべし。「両頭倶動(りやうてうくどう)、仏性在阿那箇頭(ざいおなこてう)」といふは、倶動ならば仏性の所在に不堪(ふかん)なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか。師いはく、「莫妄想(ももうざう)」。この宗旨(そうし)は、作麽生(そもさん)なるべきぞ。妄想(まうざう)することなかれ、といふなり。しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、たゞ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、たゞ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。「動ずるはいかゞせん」といふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著(だうぢや)するか。「風火未散(ふうくわみさん)」といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、倶出(くしゆつ)すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。たゞ「莫妄想(もまうざう)」と道取す、「風火未散」と道取す。仏性の活計(くわつけ)は、長沙の道を卜度(ぼくたく)すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散(みさん)といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期(ご)いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく。未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音(いつとん)の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。又、仏性は生(しやう)のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解(せうもんはくげ)なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有(う)なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性(しやうふしやう)なるべきと邪執(じやしふ)せるは、外道なり。無始劫来(むしこふらい)は、癡人(ちにん)おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人(せうしやじん)なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水(たでいたいすい)なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫(しやうへきぐわりやく)なり。向上に道取するとき、作麽生(そもさん)ならんかこれ仏性。還委悉麽(わんゐしちま)(また委悉すや)。三頭八臂(さんてうはつぴ)。」長沙景岑と面会する機会を得た竺という役人はこう問い質した、「蚯蚓が斬られて真っ二つになっても、どちらの頭も同じようにのたうっています。よく分からないのですが、仏性はどちらにあるのですか」。師はこう応えた、「くだらない考えはしない方がいい」。竺は食い下がってこう云った、「ならばのたうっていること自体はどう考えればよいのですか」。師はこう返した、「ただ風火が散っていないということだ」。ここで竺が、「蚯蚓が斬られて真っ二つになった」と云っているが、果たして斬られる前は一つであったと決めてかかっていいのか。仏祖の門徒はそのような考え方をしない。そもそも蚯蚓は「一つ」ではなく、斬られて「両(方)二つ」になるとも考えない。「一つ」と「両(方)二つ」ということの意味を改めて考えなければならない。それでは「両」の頭が一緒にのたうっているという時のこの「両」の頭とは、単にまだ斬られる前を「一つ」頭としてそう云っているのか、それとも仏の存在を超越した、仏性という考えを脇に置いた単純な「一つ」とするのか。「両」の頭という言葉の真の意味をこの時の竺という役人が分かっていようがいまいがそんなことはどうでもよく、この話のこの「両」という言葉の重要さを見逃してはならない。斬られて二つになった頭はそうであっても「一つ」の頭であり、あるいは別にもう「一つ」の頭たとえば無数の頭と考え得るものが別にあるのか。そののたうつと云って一緒にのたうっていると云っているのは、たとえば『大般涅槃経』に出て来る「先以定動、然後以智抜(禅定によって煩悩を揺り動かし、智慧によって煩悩を取り除く)」という時の、煩悩も智慧も一緒に動いているという状態と同じであると考えるべきである。またここでは、「よく分からないのですが、仏性はどちらの頭にあるのですか」と云っているが、「仏性が斬られて真っ二つになりました。私には分かりません。蚯蚓はどちらの頭にあるのでしょう」と云わねばならないのだ。この論点はこのように捉え方を変えながら注意深く考えなければならい。あるいは「二つの頭の両方とものたうっていて、仏性はそのどちらにあるのか」という疑問は、ともに一緒にのたうっているのならば、もはや仏性が「ある」という状態ではないと考えるということなのか。それとも一緒にのたうつということが、そののたうちが一緒にのたうっているとしても、仏性があるのはそのうちのどちらかでなければならないというのか。そして師はこう応えた、「くだらない考えはしない方がよい」。この意味をどう考えればよいのか。師は妄想してはいけないと応えたのだ。もちろん、真っ二つになった頭が一緒にのたうちまわること自体は妄想ではない。ならば目の前の斬られた蚯蚓は妄想ではないのか、一方的に仏性は妄想ではないと決めつけてよいのか。仏性をああだこうだ云う前に、真っ二つになった頭をああだこうだ云う前に、一旦足を止めこの問いに妄想はない、決してくだらない考えではないということも頭に置いて考えるべきである。「両方とものたうっているのですから」というもの云いは、二つがのたうっているならば仏性がもう一つ必要になると考えるのか、あるいはのたうちまわっているものには仏性はないと考えるのか。「未(いま)だ風火が散っていない」とは、万物の拠り所となる四大、地水火風の風火という具体の名をたとえに使って仏性の存在を意識させたのである。しかし安易に風火は仏性のことであり、仏性を風火にたとえたとしてしまっていいのかと云えば、仏性は風火であるという云い方はあり得ず、かといって一方を出せば一方は出せないという関係でもない。だから風火を仏性であるとすることは誰にも出来ない。そうであるから長沙は、蚯蚓に仏性有りとは云わず、蚯蚓に仏性は無しとも云わず、ただ、「くだらないことを考えない方がいい」と教え諭し、あえて「未だ風火は散っていない」と応えたのだ。仏性をありありと捉えるには、長沙の言葉を推し量り考えるべきなのだ。なぜ風火が未だ散っていないと云ったのかと冷静に考える必要がるのである。では未だ散っていないという言葉にはどのような道理があるのか。たとえば風火が集まりかたまっていて散る時期にまだ到っていないという様を未だ散らずと云うのか。決してそうではないのである。あえて云えば風火未散とは、ほとけが法を説くということであり、未散風火とは法がほとけを説くことである。いま仮にたった一つの音声で真実の法を説くことが出来たとする。法を説くたった一音「風火未散」が見つかったのである。法はその一音である、なぜなら一音声が法そのものとなったからである。加えて、仏性は生きている時にだけあり、死んでしまえばなくなってしまうなどと考えるのは、法を知らない最も浅はかな捉え方である。生きている時にも「有仏性」、仏性があるということと考え、同時に「無仏性」無いものとしての仏性を考える。そして死んでも「有仏性」仏性があることを考え、同時に「無仏性」無いものとしての仏性を考えるのだ。風火が散るとか散らないなどと論ずるのであれば、仏性が散るということや散らないということも論じなければならない。が、仮に散るとしても仏性はあると思うと同時に仏性が無いことを思えばいいのである。仮に未だ散っていないとしても仏性はあると思うと同時に仏性が無いと思えばいいのである。そうであるにもかかわらず仏性を様々なものが動いたり動かなかったりするのに従って存在したり存在しなかったり、認識するか認識しないかによって不思議な働きがあったりなかったりするとか、知るか知らないかによって仏性であったり仏性でなかったりするような誤った捉え方に縛られるのは外道である。はじまりがどこか分からぬほど遥か遠い昔から幾多の愚か者が、不可思議な智慧の働きを仏性であると考え、また、仏性を如来であるとしてきたのには大笑いするしかない。ここに到っていま仏性を言葉に表わすとすれば、たとえばずぶぬれで泥まみれの恰好がたとえにふさわしいとは思わないが、仏性とはただの土壁や瓦礫なのである。つまり垣根とか壁とか瓦とか石ころといった具体的な形をしたものとして現れ出るものなのであり、さらに一歩進めそれらを超越した云い方をあえて口に出せばこういうことだ。一体何なんだ、仏性って。ちゃんと理解したか。頭が三つで腕が八本。東山真言宗智積院(ちしゃくいん)の金堂を囲っている五色、黄緑、黄、橙、白、紫の大きな垂れ幕が風に揺らいでいる。この金堂は鉄筋コンクリートの巨大な建物である。「(智積院は)豊臣秀吉公棄君、早世の為に祥雲寺を草創ある。紀州根来寺滅びて後、覚鑁派(かくばんは)の断絶により、新義の徒これを嘆きて御当家(徳川家)に愁訴す。これに依つて祥雲寺を賜はつて智積院と号し、新義派の学室となる。」(『都名所図会』)西から向かえば七条通の行き止まりにあるこの智積院の寺の紋は桔梗である。この謂われは祥雲寺の建設を担当した加藤清正の家紋から来ているという。この寺紋に因んで、段を幾段か交えて曲り上る白く日光を跳ね返すコンクリートの参道の両側の、膝上の高さに太い割り竹を組んだ柵に沿って桔梗が一本一本植えられていて、柵の内の地面は苔に覆われ、一本の梅の木から梅の実が落ち散らばっている。掃き清められた参道には桔梗以外の花は見当たらない。漱石が白桔梗に見た仏性とは、厳しい修行を経た禅的な近寄りがたい潔癖さのようなものであろうか。それを悟りと云い換えてもよいのかもしれない。が、道元は『正法眼蔵』で、「三頭八臂(さんちようはつぴ)」、人間に頭が三つあり腕が八本あっても仏性に対する思考は追いつかないと云っているのである。桔梗一輪死なばゆく手の道通る 飯田龍太

 「作次が三つになったばかりのころ、父親が出先で怪我をして帰ってきて、半年ほど仕事を休んだことがあった。その半年の間、母親が代わりに町の煉瓦工場へ働きに出たが、父親の怪我が直ってまた旅へ出かけてからも、母親は日銭の味が忘れられなくてそのまま煉瓦工場の女工をつづけていた。けれども、物蔭に寝かせて置ける赤子とはちがって、やっと足腰に自信をつけた三つの子など、とても危険な工場へ連れてゆけない。それで、作次はひとりで留守番をさせられることになったのだが、三つ子のひとり歩きが危険なのは村もおなじだから、このあたりでエンツコと呼んでいる藁でお椀の形に編んだ揺籠のなかに、腰から下をすっぽりと埋め込まれての留守番になった。」(「ロボット」三浦哲郎『木馬の騎手』新潮社1979年)

 「処理水放出「反対変わらず」 全漁連、西村経産相に決議文提出」(令和5年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)