「嵯峨お松明」は、五山の送り火鞍馬の火祭りとをもって京都三大火祭りの一つとされている。頃は三月十五日、所は清凉寺、嵯峨釈迦堂境内である。江戸期にはその番号を振った提灯が意味を持ち籤(くじ)によって決まった並べる高さで米相場を予想したという十三本の赤提灯を掲げた本堂前に、赤松の古枝を藤蔓で編んだ円錐を逆さまにした形の高さ七メートルの大松明が三基据えられる。護摩壇の赤松に火が点き、読経の中護摩木が焚かれると人垣の輪の中に檀家総代を先頭に式服を纏った僧侶と提灯を掲げあるいは手に持った数十人の檀徒が大松明の回りを何周か練り歩いた後、一斉に松明に火が入る。豊作を呼ぶという天狗の顔に見立てた縄で作った十二の輪を縦に帯びた三基の大松明は、かつてそれぞれ早稲、中稲、晩稲に見立てられ、その燃え方で農家がその年の米の出来を占ったといい、あるいは、旧暦二月十五日、新暦三月十五日は釈迦入滅の日とされ、釈迦が荼毘にふされる様を表しているのだともいう。三月十五日、午後七時過ぎ、丸太町通の西の果てで交わる門前通に入れば、薄暗さの中にぽつぽつ釈迦堂に向かう人の姿が現れ、着いた山門前の露店には子ども連れが群がっていて、ひっきりなしに出入る者らとすれ違いながら門を潜れば、大松明を遠巻きに囲んだ人垣の後ろ、同じように囲んで立ち並ぶ露店との間を大勢の者らが行きつ戻りつしながらぞろぞろ行き交っている。喰い物屋、おもちゃ屋、スーパーボール掬い、籤引き屋の前で屯(たむろ)しているのは教室の外で会う私服に着替えた地元の小学中学の同級生であろう。そこここで肉の焼ける匂いや甘い香りをかぎながら仲間同士で声を掛け合い、あるいは誰々を見かけたかなどと話し込み、PTAの上着を羽織った者らがその者らの間を縫うように巡回していて、後ろで子どもがソースの垂れで服を汚し、金髪や赤毛の若者が英語で何事かをしゃべり続け、幼稚園に子どもを入れるのに前の日から並んだ話が傍らの中年女の口で語られ、あるいは物静かな老夫婦は辛抱強くロープの前で立ち続け、そちこちで携帯電話の明かりが灯り、いよいよ八時に近づくと人垣は千人を超すばかりに膨れ上がり、中に入ればもはや身動きも取れぬまま火がつくのを待つことになる。八時過ぎ、人垣の一角を割って法被姿の者が中に入り赤松の枝の護摩壇に火を点ければ忽ち風に煽られた炎はものすごい勢いで燃え上がり、その火の粉のかけらが大松明のひとつの先に火をつける。人垣に歓声が上がるが、これは順に従っていないまだ火がついてはならぬ「事故」である。が、火のついた松明は「消すわけにもいかず」なすがままに燃え、北西から吹く風にもうもうと煙とともに音を立てて燃え上がり、舞い上がった火の粉が風下の人垣に降り注ぎ出すと軽い悲鳴が上がって輪が崩れ、控えていた消防隊員が割れた人垣に「空」を作る。火のついてしまった松明は下に凋むその姿とともに炎の勢いを鈍らせて燃え尽き、それを待って提灯を掲げ、老僧と法被姿の檀徒が輪の中に入って来る。そして大松明を何度か巡った後、竹竿の先に刺した護摩壇の火をつけた藁束を中空に掲げ、二つの大松明の中へ振るい落す。松明は忽ち燃え上がるとまた炎は北西の風に煽られ、煙とともに舞い上がった火の粉が風下の人垣に降り注いで割れる。が、消防隊員が「空」を作っても風が止めば人垣はもとに戻っていく。その初めの一時の松明の炎の勢いは人垣の最前に並ぶ顔を火照らせる以上の熱を持って一瞬皆の怯む様子が人垣中を小波のように駆け巡り、それでもその瞬間も燃えさかる「火」に見入ってしまう何事かをそれらの眼差しはありありと語っていたのである。二基の内の一基は燃え進みが悪く、それから二度藁束の火がつけられ、やがて松明は下に向かって燃え尽き、地に落ちた枝の残り火がすっかり消えるのを待って消防隊員が水をかけたのであるが、その頃には人垣はすかすかにほどけ、その大分は「引く波の如く」に姿を消し、露店は店じまいをはじめている。一基は「事故」で早々に燃え、一基の燃えつきの悪かった今年の「嵯峨お松明」の占いは些(いささ)か不穏である。が、京都の春はこれより到来するという。

 「その年の冬はたくさん雪が降った。しかし降るのはたいていいつも暗くなってからだった。昼間は寒さで身が切られるようであり、白い光のためにきらきらと輝いていた。エドワードは青い防寒服を着、赤い手袋をはめ、新しいオーバーシューズをはいていた。そしてルーシィは、部屋をきちんと整頓すると彼を明るい色の冬服に着がえさせて、マーケットまで買物車を押しながらいっしょに連れて行くのであった。エドワードはルーシィの横について歩きながら、新しく雪が積もったところに来ると赤いシューズを片方ずつそのなかへ突っ込み、いつもたいへん慎重にいっしょうけんめいそれを引き抜くのであった。」(『ルーシィの哀しみ』フィリップ・ロス 斎藤忠行・平野信行訳 集英社文庫1977年)

 「川俣と楢葉で震度5弱、男女2人けが 処理水放出、一時停止」(令和6年3月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)