鴨川に架かる御池大橋の西詰、橋の袂の歩道の端に「春の川を隔てゝ男女哉」と刻んだ焦げ茶色のなだらかな山のような句碑がある。その前文に「木屋町の宿をとりて川向の御多佳さんに」とあり、木屋町三条上ルにあった北大嘉(きたのだいが)に宿を取ったのは夏目漱石であり、「川向の御多佳さん」は、土建業の旦那に落籍(ひか)され、二年で死別した後「一中節をよくするほか、絵画・文芸のたしなみもあり、尾崎紅葉谷崎潤一郎の知遇を得た」(『漱石全集第ニ十巻』注解 岩波書店1996年刊)祇園の芸妓、お茶屋大友(だいとも)の女将磯田多佳である。夏目漱石は大正五年(1916)十二月九日に亡くなるが、その前年の大正四年(1915)の三月、四度目の京都の地を踏み、その日の日記にこう記している。「十九日(金)朝東京駅発、好晴、八時発。梅花的皪。岐阜辺より雨になる。展望車に外国人男二人、女五人許(ばかり)。七時三十分京都着、雨、津田君雨傘を小脇に抱えて二等列車の辺を物色す。車にて、木屋町着、(北大嘉)、下の離れで芸妓と男客。寒甚し。入湯、日本服、十時晩餐。就褥、夢昏沌冥濛。」二等車両に漱石の姿を探した「津田君」とは、東京で漱石に画を教え、本の装丁も手掛けた津田青楓で、この三月から伏見深草の貸別荘桃陽園に滞在していた。胃からの大量吐血で生死を彷徨った「修善寺の大患」の後、入退院を繰り返しながら二月に朝日新聞の連載『硝子戸の中』を終えた漱石に静養を勧めたのが津田青楓で、漱石の妻鏡子もまた津田に頼んでいたのである。「二十日(土)朝静甚し。硝子戸の幕をひく。東山吹きさらされて、風料峭(りょうしょう、春風の冷たさ)、比叡に雪斑々。忽ち粉雪、忽ち細雨、忽ち天日。一草亭(西川一草亭、津田青楓の兄)君来、自画十五六幅を示さる。鶏、雀に蘆、雀、馬蓼、雀に蘆、椿、皆美事なり。此朝、臥牀中一号二号三号の恋を聞く。津田君から。「先生の顔は赤黒い」「あなただつて同じだ」「そんな事はない」「夫(それ)でも若い時は綺麗でしたか」「えゝ今よりは」「いゝえ他の人に比べて綺麗でしたか」「えゝ」「ぢや女に惚れられましたか」「えゝ少くとも今茲(ここ)に三つあります」云々 三人で大石忌(祇園一力亭での大石良雄の法要)へ行く。小紋に三ツ巴の仲居。赤前垂。「此方へ」「あちらから」と鄭寧に案内する。舞があるから見る。すぐ御仕舞になる。床に蕎麦が上げてある。薄茶の席へ通る。美くしい舞子と芸者が入れ交り立ちかはり茶を出す、見惚れてゐる。仏壇に四十七士の人形が飾つてある。菜飯に田楽が供へある。腰懸をならべた所で、蕎麦の供養がある。紺に白い巴を染め抜いた幕。三年坂の阿古屋茶屋へ入る。あんころ一つ。薄茶一碗、香一つ。木魚は呼鈴の代り。座敷北向、北の側、山家の如し、絶壁。(祇園から建仁寺の裏門を見てすぐ左へ上る)。清水の山伝 子安の塔の辺から又下る。小松谷の大丸の別荘を見る。是も北に谷、其又前に山を控へて寒い。亭々曲折して断の如く続の如く、奇なり。石、錦木を植ゑたり。小楼に上る。呉春蕪村の画中の人、腹いたし。電車にて帰る。晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。」多佳は西川一草亭から漱石が京都に来ることを聞き及んでいて、この日津田に呼ばれ、はじめて顔を合わせるのであるが、明治四十三年(1910)に多佳は自分が図案した虞美人草の湯呑を病気見舞いに漱石に送っている。この時多佳は関係のあった画家浅井忠がデザインを手掛けた陶器を売る九雲堂の女主人であった。その年の九月十八日(日)の漱石の日記にはこう記されている。「昨夜東洋城(松根東洋城、俳人)帰京の途次寄る。九雲堂の見舞のコツプ虞美人草の模様のものをくれる。戸部の一輪挿是は本人の土産也。地方にて知らぬ人余の病気を心配するもの沢山ある由難有(ありがた)き事也。京都の髪結某余の小さき写真を飾る由。金之助(祇園の芸妓梅垣きぬ)といふ芸者も愛読者のよし。東洋城より聞く。」漱石は、二十一日は西川一草亭の住まい去風洞で食事を摂り、津田青楓の桃陽園に足を伸ばして一泊し、翌二十二日は仏国寺、萬福寺、宇治平等院を巡り、興聖寺奥の温泉に浸かって、「━━雨中木屋町に帰る。淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む。飯を食はす為に自分で料理の品を択んであつらへる。鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀(大阪の実業家加賀正太郎)の依頼(多佳の口添えで加賀の別荘に名をつけこと)。一草亭来。」「二十三日(火)朝青楓来。一草亭来。今日はある人の別荘を見る計画なり、一草亭曰くある別荘の主人は起きるすぐ店へ出、夕方家へ帰る、別荘を見る余暇なし、細君にすゝめられて雪の降る日など一寸ひる位迄は我慢して家に居れど東京から手紙が来てゐるかも知れないと云つて出掛る。とうとう折角の別荘を見ずに死んでしまつた。他の一人は他からかういふ家に起臥して嘸(さぞ)よからうと云はれて、どう致して此所にゐて人にでもつらまつた日には尻を落付けられて甚だ迷惑するから出来る丈早く店へ出るといつた。腹工合あしく且天気あしゝ。天気晴るれど腹工合なほらず。遂に唐紙をかつた三人で勝手なものをかいてくらす、夕方大阪の社員(朝日新聞社員)に襲はる。入湯。晩食。御梅さん(芸妓梅垣きぬ)としばらく話す。」「二十四日(水)、寒、暖なれば北野の梅を見に行かうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方へ行つて今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ夕方懸けたつて仕方がない。車を雇つて博物館に行く。写真版を買ふ。伏見の稲荷迄行つて引き返す。四条通りの洋食屋へ連れて行くまづい。四条京極をぶらぶらあるく。腹工合あしし。帰つて青楓に奈良行の催促をする。晩に気分あしき故明日出立と決心す。」「二十五日(木)寐台車を聞き合せる。六号。胃いたむ。寒。縁側の蒲の上に坐布団をしき車の前掛をかけて寐る。其前青楓来。奈良行の旅費を受持つから同行を勘弁してくれとたのむ。一草亭から、蘆に雀の画(御多佳さんの持つていつたの)をもらふ。御多佳さんがくる。出立をのばせといふ。医者を呼んで見てもらへといふ。寝台を断つて病人となつて寐る。晩に御君さん(祇園芸妓野村きみ)と金之助(梅垣きぬ)がくる。多佳さんと青楓君と四人で話してゐるうちに腹工合少々よくなる。十一時頃浅木さんくる。ニ三日静養の必要をとく。金之助の便秘の話し。卯の年の話し。先生は七赤の卯だといふ。姉危篤の電報来る。帰れば此方が危篤になるばかりだから仕方がないとあきらめる。」「二十六日(金)終日無言、平臥、不飲不食、午後に至り胃の工合少々よくなる。医者くる。」「二十七日(土)夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。三人共飯を食ふ。牛乳を飲んで見てゐる。御多佳さん早く帰る。あとの二人は一時過迄話してゐる。金之助が小供を生んだ話をする。御君さんは金神さまの信心家自分はないといふ。」「二十八日(日)昨夜三(人)が置いて行つた画帖や短冊に滅茶苦茶をかいては消す。一草亭より蕉雨の書画帖をかしてくれる。一草亭は西園寺さんより小燕といふ小鳥をもらふ。牡丹と藤、百合、を小僧に持つてこさせる。医者来、人工カルゝスをくれる。」「二十九日(月)又画帖をかく、午後御多佳さんがくる、晩食後合作(連歌)をやる。」二十四日に漱石は、北野天満宮の梅を見に行く約束を破った多佳に腹を立て、聞けば多佳は前の日から別荘に名をつけてくれと頼んだその別荘の持ち主加賀正太郎と宇治へ舟遊びに出掛けていると知ると、腹の虫がおさまらず博物館に出掛け、伏見稲荷までぶらついて戻り、青楓に奈良への誘いの電報を打ち、果ては東京へ帰ると云い出す。が、多佳は二十五日の「天神さんの縁日」に晴れて暖かければという心づもりだったのである。二十五日の多佳の日記にはその「約束ごと」には触れずこう記されている。「昨日おとゝひと二日宇治へ行きしため先生をおたつねせず、どうしておいでやらとひるすぎ大嘉へゆく。まださむけれど二十日よりは日に日に少しあたゝかくなつた様なり。先生は南向の方の縁側へ横になりだまつてねておゐでになり、津田さんが先生には一昨日より御気分わるく、今夜の汽車で東京へ帰るとおつしゃるゆへ何とかしてとめてくれとなり。大分お顔色もわるく昨日より何もあがらぬため、元気なさそうにてもしやお帰りの途中にてわるふなつては難儀なり津田さんも心配なされるゆへどうぞニ三日待て少しでもお快うなつてからと色々言葉をつくしてお止めせしに、二日も訪(と)ふてくれぬから淋しさにこんなにわるふなつたなどゝ苦しい中からじやうだん口をおきゝになる。先生のお笑ひになる時少し口をゆがめて目尻に皺をよせて軽ふお笑ひになるのが又なつかしい。漸くお帰りもお見合わせになり浅木さんといふお医者さんをよぶ━━。」この騒動の後に多佳に宛てて漱石が詠んだのが「春の川を隔てゝ男女哉」である。その後体調を持ち直した漱石は二十九日、多佳の店大友で舞妓の舞を見たその深夜またも胃の不調を訴え、医者が呼ばれ、床に就いたまま二晩大友で過ごし、多佳の四月一日の日記によれば、「七時起きいでたづねしにけさ少し心よいときゝ嬉しと思ふ。されど昨日朝より今も猶何一口上らず。どこから聞へしや朝日新聞より電話にて手当は行きとゞいてゐるかおいしやは誰に見せてゐるかと津田さんへたづねられる。心落ちつかず此のまゝわるふなられて来ては難儀ゆへ東京の奥さんへおしらせ━━」し、鏡子が三日にやって来て、漱石は四月十六日、鏡子と東京へ帰っていく。が、漱石と多佳の「関係」はこれで終りではなかった。漱石が多佳に出した礼状への多佳の返信を読み、漱石はこのような手紙を書いて多佳に送る。「御多佳さん『硝子戸の中』が届かないでおこつてゐたさうだが、本はちやんと小包で送つたのですよ。さつき本屋へ問合せたら本屋の帳面にも磯田たかといふ名前が載つてゐるといつて来たのです。私はあの時三四十冊の本を取寄せて夫(それ)に一々署名してそれを本屋からみんなに送らせたのだから間違いはありません。もしそれが届いてゐないとするなら天罰に違いない。御前は僕を北野の天神様へ連れて行くと云つて其日断りなしに宇治へ遊びに行つてしまつたぢゃないか。あゝいふ無責任な事をすると決していゝむくひは来ないものと思つて御出で。本がこないと云つておこるより僕の方がおこつてゐると思ふのが順序ですよ。それはとにかく本はたしかに送つたのです。然し先年北海道の人に本をやつたら届かないといふので其人に郵便局をしらべさせたら隅の方にまぎれ込んでゐた例もあるからことによると郵便局に転がつてゐるかも知れない。もう一冊送る位は何でもないけれども届かない訳がないのに届かないのだから郵便局にひそんでゐやしないかと思ふのですが、それを問ひ合せる勇気がありますか。もし面倒なら端書をもう一遍およこし、さうしたらすぐ送ります。君の字はよみにくゝて困る。それに候文でいやに堅苦しくて変てこだ。御君さんや金ちやんのは言文一致だから大変心持よくよめます。御多佳さんも是からサウドスエで手紙を御書きなさい。芋はうまいが今送つてもらひたくない。其外是と云つて至急入用なものもない。うそをつかないやうになさい。天神様の時のやうなうそを吐くと今度京都へ行つた時もうつきあはないよ 以上」手紙を読んだ多佳はすぐに弁解謝罪の手紙を漱石に出した。が、漱石は容赦をしなかった。「━━あなたをうそつきと云つた事についてはどうも取消す気になりません。あなたがあやまつてくれたのは嬉しいが、そんな約束をした覚がないといふに至つてはどうも空とぼけてごま化してゐるやうで心持が好くありません。あなたは親切な人でした夫(それ)から話をして大変面白い人でした。私はそれをよく承知してゐたのです。然しあの事以来私はあなたもやつぱり黒人(くろうと、玄人)だといふ感じが胸のうちに出て来ました。私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚痴でもありません。たゞ一度つき合ひ出した━━美しい好い所を持つてゐるあなたに対して冷淡になりたくないからこんな事をいつ迄も云ふのです。中途で交際が途切れたりしたら残念だから云ふのです。私はあなたと一ヶ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を沢山見ました。然し倫理上の人格といつたやうな点については双方とも別段の感化を受けずに別れてしまつたやうに思ふのです。そこでこんな疑問が自然胸のうちに湧いてくるのです。手短かにいふと、私があなたをそらとぼけてゐるといふのが事実でないとすると私は悪人になるのです。夫(それ)からもし夫(それ)が事実であるとすると、反対にあなたの方が悪人に変化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて悪人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかへてあやまるのが人格の感化といふのです。然し今私はあなたが忘れたと云つてもさう思へないやつぱりごま化してゐるとしか考へられないのだから、あなたは私をまだ感化する程の徳を私に及ぼしてゐないし、私も亦あなたを感化する丈の力を持つてゐないのです。私は自分の親愛する人に対してこの重大な点に於て交渉のないのを大変残念に思ひます。是は黒人(くろうと)たる大友の女将の御多佳さんに云ふのではありません普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私が云ふ事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとか云へば夫(それ)迄ですが、私は折角つき合ひ出したあなたに対してさうした黒人(くろうと)向の軽薄なつひ合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいゝ加減な挨拶をしてゐれば手数が省ける丈で自分の方は楽なのですが私はなぜだかあなたに対してさうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでゐるとしか考へられないのです。それで是丈の事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい。又真面目に聞いて下さい。━━白川の蛙の声はいゝでせう。私は昨日の朝の真中へ椅子を持ち出して日光を浴びながら本をよみました。私には此頃の温度が丁度適当のやうです。本は売り切れてもう一冊もありませんから小売屋から取寄せてそれを送る事にしませう。京都の郵便局になければ此方でさがしたつて判る筈がありません。書留小包でないから調べてくれるにしても出ては来ません。こんな事は滅多にない事です。此間芝川さんが来てくれました。こう此位にしてやめにします 以上」漱石のいう「北野の天神様へ連れて行く」約束は、多佳の方にもしかすると漱石に誤解させるような、たとえばこの時期話に上る「天神さん」は二十五日の縁日が京都の「常識」で、たとえば「よそ者(さん)」に対して遠回しにものを云い自分の方から決して断定的なもの云いをしない、といったような京都独特の「もの云い」があったのかもしれない。が、その「もの云い」が京都生粋の「もの云い」であればあるほど生粋の京都人たる多佳は江戸っ子漱石の「もの云い」に対して譲れぬものが腹の底にあったかもしれぬ。それを見透かし漱石はこのように執拗に多佳を責めたのかもしれない。「春の川を隔てゝ男女哉」京都で羽を伸ばして男と女を「夢見た」のは漱石の方であった。多佳は漱石が亡くなった後も鏡子夫人の許を度々訪ねたという。人に死し鶴に生れて冴え返る 夏目漱石

 「彼等が異端なのではなく、彼等を異端とするから、異端に成るのである。そうして彼等は、かの書に言う『党派』であり、『肢(えだ)』なのだ。手足である『肢』がなくて何が『体』なものか。それが存在することこそが、むしろ『体』を『体』たらしむる所以である。死と絶望の宗教を持つ彼等をも含んで、人間は素晴らしいものである筈だ。」(『路上の人』堀田善衛 新潮社1985年)

 「廃棄物は通常の原発600基分 福島第一の廃炉、早く議論すべき理由」(令和6年3月9日 朝日新聞DIGITAL)

 白川、知恩院