松尾大社の二の鳥居と楼門の間の参道に直径二メートルほどの茅の輪が設けられていた。これを潜ることで半年の穢(けが)れを祓(はら)うことになるという夏越の祓いのためのものである。その傍らに潜り方を記した札(ふだ)が立っている。まず左側から潜って戻り、今度は右側を潜って戻ってまた左側を潜って戻ってから正面を潜っていくというのである。この左からはじめる順の所作は伊邪那岐命イザナギノミコト)の天の御柱廻りから来ているという。「其の島(淤能碁呂島、おのごろしま)に天降(あまくだ)り坐(ま)して、天(あめ)の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。是に其の妹(いも)伊邪那美命イザナミノミコト)に問曰(と)ひたまはく、「汝(な)が身は如何(いかに)か成れる。」ととひたまへば、「吾が身は、成り成りて成り合はざる處一處(ひとところ)あり。」と答曰(こた)へたまひき。爾(ここ)に伊邪那岐命詔(の)りたまはく、「我が身は、成り成りて成り餘れる處一處あり。故(かれ)此の吾が身の成り餘れる處を以(も)ちて汝が身の成り合はざる處に刺し塞ぎて、國土を生み成さむと以爲(おも)ふ。生むこと奈何(いかに)。」とのりたまへば、伊邪那美命、「然(しか)善(よ)けむ。」と答曰(こた)へたまひき。爾(ここ)に伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、「然らば吾(あれ)と汝(いまし)と是(こ)の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)爲(せ)む。」とのりたまひき。如此(かく)期(ちぎ)りて、乃(すなは)ち、「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔(の)りたまひ、約(ちぎ)り竟(を)へて廻る時、伊邪那美命、先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを、本当にいい男)と言ひ、後に伊邪那岐命、「阿那邇夜志愛袁登賣袁(あなにやしえをとめを、本当にいい女)と言ひ、各(おのおの)言ひ竟(を)へし後、其の妹(いも)に告曰(つ)げたまひしく、「女人(をみな)先に言へるは良からず。」とつげたまひき。」(『古事記』)左廻りをした伊邪那岐命は右廻りをした伊邪那美命が自分より先に口を開いたのを気に入らないと云ったのだ。ぽつりぽつりとやって来る年寄りらが作法通りに茅の輪を潜り、楼門の内に入ると、風鈴の音を耳にして足を止める。その音は一つ二つではなく数百の音であり、風鈴は手水舎や周りの軒や棚にぶら下がっていて、風が通るたびに一斉にガラスの音を鳴らしている。本殿を屏風のように取り囲む松尾山がその音色を境内に撥ね返す。手水舎の手前にいま白いテントが建っていて、参拝した者に茅(ちがや)の茎を一本づつ配っていた。茅(ちがや)は夏越の祓いの茅の輪の茅であり、伊邪那岐命の鼻から生まれた建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)がある時、蘇民將來(そみんしょうらい)に茅の輪を作って腰に下げよと命じた茅である。「備後國風土記」の「逸文」にその話が記されている。「備後(きびのみちのしり)の國の風土記に曰(い)はく、疫隅(えのくま)の國社。昔、北の湖に坐(いま)しし武搭(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。彼(そ)の所に將來二人ありき。兄の蘇民將來は甚(いた)く貧窮(まづ)しく、弟の將來は富饒(と)みて、屋倉(いへくら)一百(もも)ありき。爰(ここ)に、武搭の神、宿處(やどり)を借りたまふに、惜(をし)みて借(か)さず、兄の蘇民將來、借(か)し奉(まつ)りき。卽(すなは)ち、粟柄(あはがら)を以(も)ちて座(みまし)と爲(な)し、粟飯等(あはいひども)を以(も)ちて饗(みあ)へ奉(まつ)りき。爰(ここ)に畢(を)へて出でませる後に、年を経て、八柱(八神)のみ子を率(ゐ)て還り來て詔(の)りたまひしく、「我、將來に報答(むくひ)爲(せ)む。汝(いまし)が子孫(うみのこ)其の家にありや」と問ひたまひき。蘇民將來、答へて申(まを)ししく、「己(おの)が女子(おとめ)と斯(こ)の婦(め)と侍(さもら)ふ」と申しき。卽(すなは)ち詔(の)りたまひしく、「茅の輪を以(も)ちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔(みことのり)の隨(まにま)に着けしむるに、卽夜(そのよ)に蘇民の女子(おとめ)一人を置きて、皆悉(ことごと)にころしほろぼしてき。卽(すなは)ち、詔(の)りたまひしく、「吾は速須佐雄(ハヤスサノヲ)の神なり。後の世に疫氣(えやみ)あらば、汝(いまし)、蘇民將來の子孫(うみのこ)と云ひて、茅の輪を以(も)ちて腰に着けたる人は免(まぬが)れなむ」と詔(の)りたまひき。」茅の輪を腰にぶら下げれば災いから逃れることが出来ると速須佐之男蘇民將來に告げたのであるが、それを潜ることが出来るほど大きくなったのはどうしてであろうか。輪は小さいより大きい方がより御利益があるかもしれないと蘇民將來の子孫は考えたかもしれない。そして茅の輪は次第に大きくなり、やがて人の胴が通るほどのものとなり、しまいにその何倍もの大きさとなって神社に奉納され、六月三十日にあたかも己(おの)れと縫い結ぶように潜る者は誰でも蘇民將來と同じ御利益を受けることが出来るとされるようになった。七月一日より様々な行事がはじまる祇園祭で配る粽、茅巻きの中には「蘇民將來子孫」と記した護符が入っている。これを玄関に飾って己(おの)れを蘇民將來の末裔であると名乗り、悪霊を欺くのである。せはしげに安風鈴の鳴り通し 富安風生。

 「ひがしの方の京都を中心とする山城の平野と西の方の大阪を中心とする摂河泉(せっかせん)の平野とがここで狭苦しくちぢめられていてそのあいだをひとすじの大河がながれてゆく。されば京と大阪とは淀川でつながっているけれども気候風土はここを境界にしてはっきりと変る。大阪の人の話をきくと京都に雨が降っていても山崎から西は晴れていることがあり冬など汽車が山崎を過ぎると急に温度の下ることが分るという。そういえばところどころに竹藪の多い村落のけしき、農家の家のたてかた、樹木の風情、土の色など、嵯峨あたりの郊外と似通っていてまだここまでは京都の田舎が延びて来ているという感じがする。」(「蘆刈谷崎潤一郎吉野葛蘆刈岩波文庫1950年)

 「処理水放出設備、来週にも合格見通し 規制委、最終検査を開始」(令和5年6月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)