猫の子にかがみて諭(さと)す京言葉 中戸川朝人。猫は年中子を産むが、俳句では「猫の子」は春の季語ということになっている。わざわざ「京言葉」と詠む作者は、恐らく京都の者ではなく、京都に生まれ育った者にとっては普段自分が使っている言葉以外はすべて方言であるから、あえて京言葉と云うことはしない。さて、この猫の子はどんな京言葉で諭されたのであろうか。たとえば『京ことば辞典』(東京堂出版1992年刊)にはこのようなもの云いの例が載っている。「きょうはオシトがみえてるし、静かにオシヤ」京都より妹来てゐる春炬燵(はるごたつ) 山田弘子。句をそのままに読めば、作者と妹はいまは別々に暮らしていて、この日京都にいる妹が姉の家に来ていて炬燵にあたっている。作者の山田弘子は兵庫の出身ということであるが、たとえば姉は実家を継ぎ、妹は京都に嫁いでいて、この日妹は姉のいる実家に帰って来ているのではあるが、「京都より」「来てゐる」という云いは妹が客として来ているという改まった感じがある。妹の方はどうかと云えば、京都の商家あたりに嫁いで久しい証拠として京言葉をしゃべれば、そこにはどことなく「京都」が漂う。時は、まだ炬燵のとれない春のある日である。ここが兵庫で姉妹二人の実家であれば、妹はこの正月にも家族を伴って挨拶に来ていたかもしれぬ。が、いまは妹はひとりで来ているのである。春炬燵とはそのような時期の炬燵である。妹は遊びで来たのではない。正月の時には出来なかった姉に相談事があったのである。それは夫の事か金か子どもの事であるかもしれぬ。が、妹は肝心なことは何も話さず、出された茶を飲み、炬燵を出て姉に暇(いとま)を告げる。妹が姉に沈むような暗い思いを齎(もたら)さないのが春炬燵であろう。が、心配になった姉は後日、京都の妹のところを訪ねる。妹には遅く出来た幼い子どもがいる。妹が襖の陰で子どもにこう云っている声が聞こえて来る。「きょうはオシトがみえてるし、静かにオシヤ」。

 「とにかくこの雰囲気にうながされて彼は語り出したのですが、後で分かったところによると、それは今話せば効果的だと判断したからではなく、心の中の幸福感がいっぱい過ぎて、思わず外にあふれ出てしまったということだったらしく、その点にわたしは注目しました。つまり、これ以黙っていられなくなってしまったのです。」(「モード・イーヴリン」ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳『嘘つき』福武文庫1989年)

 「大熊「戻りたい」3.5ポイント増 復興庁、住民の意向調査」(令和4年2月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)