冬に鶯の「あの啼き声」を聞くことはない。鶯がどこかに行ってしまって聞かないのではなく、冬には「あの声」を出さないから聞かないのである。チャッ、チャッというのが冬の鶯の鳴く声である。俳句はこの声を「あの啼き声」とは別の、笹鳴という季語にした。笹鳴の人なつかしや忌がゝり 阿波野青畝。作者は鶯の笹鳴きを耳にしてその人のことを想い出し、そういえばその人の命日もいま頃だったなと思う。木の影も笹鳴も午後人恋し 石田波郷。この句の甘さは、若き日の波郷の口から出たものであろうか。後の波郷は兵に召集され送られた中国で結核に罹って帰され、何度も肋骨を切除する手術を受け、たばしるや鵙(もず)叫喚す胸形変、と詠むのである。地蔵院で鶯の「あの啼き声」がしていた。洛西松尾大社の一の鳥居が建つ嵯峨街道を南に下った二又を右に折れ、山田岐れの交叉点を西に緩く上がる山裾の先に地蔵院がある。この道を地蔵院の方に曲がらず真っ直ぐ行けば唐櫃越(からとごえ)の山道で、本能寺の変丹波亀山から明智光秀の軍が夜道を上った老ノ坂に出る。地蔵院は一休宗純と関わりのある寺であるという。一休の弟子済岳紹派が書いたという『祖先詩偈(しげ)』にある「休祖は初め嵯峨地蔵院に御座候也」の一文がそのことを示しているというのであるが、他に地蔵院と一休を結びつけて記したものは恐らく見当たらない。別の弟子没倫紹等が書いたとされる『東海一休和尚年譜』のはじまりにはこう記されている。「後小松帝応永元年(明徳五年、1394)甲戌。師は刹利(さつり、王族階級)種なり。其の母は藤氏。南朝簪纓(しんえい、高位高官)の胤、後小松帝に事(つか)え能く箕箒(きそう、身の周りの事)を奉じ、帝の寵渥(ちょうあく、寵愛)し焉。后宮(后妃)譖(しん、讒言)して曰く、彼に南志(南朝への思い)有り、毎に剣を袖にして帝を伺う(命を狙っている)と。因って宮闈(きゅうい、宮廷)を出でて民家に入編し以て産む。師襁褓の中に処すといえども、龍鳳の姿有り。世に識者あるなし。正月朔、日出づる時出胎。二年乙亥。三年丙子。四年丁丑。五年戌寅。応永六年乙卯。師年六歳、京師安国寺長老像外鑑公に投じ、童子の役を執る。鑑呼んで周建と曰う。」謂(いわ)れのない告げ口で宮廷を追われた一休の母となる後小松天皇に仕えていた女は嵯峨の民家で千菊丸を生み、千菊丸は六歳で四条大宮の安国寺で出家し像外集鑑から周建と名をつけられた。が、千菊丸の二歳から五歳までのことは空白で何も書かれていない。地蔵院は二代足利義詮(よしあきら)、三代義満の管領、執事だった細川頼之が建てた寺である。「管領武州源頼之公、政(まつりごと)の暇、道を師(碧潭周皎、宗鏡禅師)に問ひ、得る所領頗(すこぶ)る多し。故に地を城西に占めて禅刹を剏(はじ)め、師を請して開山の祖となす。然(しか)りと雖(いへ)ども師謙光(碧潭周皎)にして楽しまず、天龍国師(夢想国師)を以て第一世と称し、自ら第二世と称す。」(『宗鏡禅師伝』)細川頼之は一度の失脚を経て再び義満の幕政に戻るが、その失脚の間に出家し、貞治六年(1367)己(おの)れの寺地蔵院を建て、頼之が師と仰ぐ碧潭周皎はその師であった夢想国師を地蔵院の開祖とし、己(おの)れを二世とした、という。が、応仁・文明の乱(1467~1477)で寺は灰になる。白塀を回した瓦葺の小さな総門の手前に庭木の様(さま)に植わっている楓にいまはまだ葉はなく、総門を入れば、参道の両側に孟宗竹が生い茂っている。竹の寺という別名があるが、竹林は周りの宅地に切り崩され辛うじて残っている様子で闇を作るような奥行きはない。鶯はこの孟宗竹の茂みのどこかにいて「あの啼き声」で一声二声啼いた。正面の石積を施した地蔵堂は昭和十年(1935)の建物で、小道を右に折れた方丈が貞享三年(1686)の再建であるという。安永九年(1780)に出た『都名所図会』に「細川頼之当寺を建立して諸堂厳重たり。応仁の兵火に罹りて亡廃す。いま延慶庵のみ遺れり。」とあり、この延慶庵が方丈となったものである。境内は他に庫裡があるだけで、この辺りにも迫る孟宗竹の手前に楓が植わっている。方丈は、庭に面した二間は二十畳足らずで、細川護熙が描いた山水画が襖を飾っている。庭は平らに苔むし、こんもりした大振りの椿の下に躑躅、あるいは楓や五葉松の枝が奥の方で込み合っている。散らばって立つ石は十六羅漢を模しているという。日光が濡れ縁の端と、接する庭の端に射している。受付小屋にいた住職のほかにこの方丈にも境内のどこにも一人の人影もない。時折り聞こえて来るのは風に撓(しな)う竹の音と、鶯の「あの啼き声」だけである。鶯に底のぬけたるこゝろかな 服部土芳。鶯の声を聞いて「心の底」が抜けたのではなく、鶯の「あの声」で春の陽気にぼーっとしていた己(おの)れは我に返ったのである。うぐひすの啼や小さき口明ィて 蕪村。

 「神話的思考の論理は、実証的思考の基礎をなす論理と同様に厳密なものであり、根本的にはあまり異なっていないようにわれわれには思われた。相違は知的作業の質によるというよりは、むしろこの作業が対象とする事物の本性によるからである。久しい以前から、技術の研究者たちは彼らの領分でこのことに気づいていた。鉄の斧は石の斧よりも、「よく出来ている」からまさっているのではない。どちらも同様に「よく出来ている」が、鉄は石と同じものではないのである。」(『構造人類学クロード・レヴィ=ストロース 川田順造他訳 みすず書房1972年)

 「国見、相馬、南相馬震度6強 震源福島県沖、津波注意報も発令/福島第1原発2号機の冷却が停止 外部への影響は確認されず」(令和4年3月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)