京都府立植物園発行の「なからぎ通信」七月二十二日号にある「見頃の植物」のガガブタ、エボルブルヌピロサス、アリストロメリア、ルドベキア、ビロードモウズイカ、クササンタンカ、タイタンビカス、インパチェンス、ガイラルディアなどに混じって、ナス、万願寺トウガラシとあった。確かに植物園の北の一角に作った小さなひと畝に、何本かの茄子が植わっていて、土に差した表示には、加茂茄子、シロ茄子、あるいはアメリカ産、中国産とある。畝の後ろの日蔭棚には、瓢箪やヘチマの実がぶらさがっている。別の表示には、加茂茄子は茄子の女王と書いてあり、茄子は実に袋を掛けると紫色にならず白いままであるとも書いてある。が、蒸し暑い日射しのさ中、加茂茄子の紫色の花やピンポン玉より大きく膨らんだ実を見て通る者はいない。初茄子や人から遠い時を行く 永田耕衣。あるいは、茄子生るや未だ未来に非(あら)ざるも。茄子や皆事の終るは寂しけれ。これは茄子には人とは違う時間の流れがあり、あるいは生ったばかりの茄子の実のその大きさは未だ未来に非ざるものなのかもしれぬが、茄子を偏愛する永田耕衣が漏らした孤独を滲ませる感慨でもある。ふるさとにただ親しきは茄子の紺 小寺正三。生まれ育った実家の隣り近所で、茄子苗を売る時期があった。家の軒先を畑にして、あるいは木の枠でひとところを囲んでそうしていたかもしれない。ビニールで覆い、芽の出た土に人糞が撒かれると、辺りに臭いが漂った。丈が十センチぐらいになった頃、農家かあるいはそうでない者が買いに来る。茄子の苗はケーキでも分けるように土ごとへらで切り分けられ、渡す時根を一握りして土を固めた。下の道には、「茄子苗あります」という看板が立っていたかもしれない。道は舗装になる前の道だ。脇を流れる川は、まだ螢の飛び交っていた川だ。買った茄子苗を新聞を敷いた木箱に入れ荷台に積んだバイクや自転車は、砂利道を帰って行った。通りがかった八百屋の奥から、祇園祭の「コンチキチン」の囃子の音がしていた。二十四日は後祭の山鉾巡行の日である。今年の話題は百九十六年振りに復活した三条通の鷹山である。巡行のテレビ中継を見ている八百屋の女将の表情は、ドラマを見るような顔つきではなかった。

 「彼らは高地に辿りついた。澄み切って、高く、汚されていない自然。静かな国だった。地形は複雑で、丘が重なって山となり、そのすぐ脇に谷が沈み、そしてまたいきなり険しい山へと大地が立ち上がっている。戦争はもう遥かに遠く、木々と濃い草が豊かに穏やかに生い茂り、人間の姿も集落も低地の苦労もない。瑞々しく深々とした大地だ。」(『カチアートを追跡して』ティム・オブライエン 生井英考訳 国書刊行会1992年)

 「処理水海洋放出の設備計画認可 規制委、着工へ地元了承が焦点」(令和4年7月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)