花園妙心寺塔頭退蔵院の墓地の裏を抜け、中門を潜ってすぐの「陰陽の庭」の片側、白砂の中の流れる楕円の形に苔を生やして石を立てたその「島」に、桔梗が数本花をつけていた。「陰陽の庭」の真ん中には鉄柱の傘で支えられた大きな枝垂れ桜が植わっている。「陰陽の庭」を抜けると、右に曲がる小道の片側が大人の背丈よりも高い葉の小さい樹が「大刈込」という、樹の塊がなだらかに丈が低くなるように刈られていて、歩むに従って塞がれていた視界が開け、空の下のゆるやかに下る斜面一面、綿のように低く刈り込まれた躑躅が植わり、その端を勢いのある水の流れが広がりながら下の池に落ちている。この池に行き着くまで、前を行く大枝垂れ桜を柳と見間違えていた老人の三人組と一緒に四阿(あづまや)を過ぎ、売店と「大休庵」という広い茶席の建物の前を通る。昭和四十年に出来た中根金作の手になるこの八百五十坪の「余香苑」に、三人組のほかに人はいない。退蔵院の表門を入ってこの池のもとに立つまで目にした花は、桔梗と池に沈めた鉢植えの蓮と淵で咲くヒオウギズイセンだけである。この時期、世に花はいくらでも咲いているはずであるが、退蔵院の庭は僅かな花しか咲かせていない。われ遂に信濃を出でず桔梗濃し 小林侠子。桔梗をこのめるわれの一生かな 飴山實。この二つの句の作者はどちらも、桔梗に己(おの)れの生きざまを託して詠んでいる。その桔梗へ思いは、一茶の、きりきりしやんとしてさく桔梗かな、のようなものであろうか。石田波郷の次の句も同様の発想である。桔梗や男も汚れてはならず。退蔵院の方丈の縁と床の間に国宝「瓢鮎図(へうねんづ)」の模造が掛けてある。これは足利四代将軍義持が、「瓢箪(ひょうたん)で鮎(鯰)を捉えることが出来るか」という問いを如拙に描かせたもので、小林秀雄はこの図にこのような感想を残している。「如拙の瓢鮎圖(へうねんづ)といふ有名な繪がある。妙な感じの現れた面白い繪である。瓢は、勿論、瓢箪だが、鮎は鯰といふ字ださうで、成る程見ると、小川のほとりに男が立ち、兩腕をたくし上げて瓢箪を持ち、川の中の鯰を睨んでゐる。支那人に違ひないが、頭に三角帽を載せた妙な男で、乞食坊主なのか暇な百姓なのか、無学な私には、まるで素性がわからない。、讃にも捉へたらお慰みと書いてあるから、川の中の鯰を、瓢箪で捉へようとしてゐるらしいが、瓢箪の酒を、鯰に飲ませようとしてゐる風にも見える。鮎もをかしい。鯰髭ではなくて、ちよび髭で、その代り無暗と大きい鰭があり、川の中にゐるどころか、それで空中を飛んでゐる様に見える。要するに見れば見るほど變てこな處が、瓢箪なまずの傑作とでも言ふのであらうか。如拙といふのも、不得要領な人物ださうで、日本人らしいが、支那人だといふ説もあるさうだが、畫面の風光はいかにも日本人らしい哀愁を湛へてゐる様に感じられる。川の流れ具合も優しいし、若竹も葦も繊細で美しい。」(「瓢鮎圖」小林秀雄小林秀雄全集 第八巻』新潮社1967年刊)ここにある「讃」とは、図の上半分に記されている義持の問いに対する三十一人の禅僧の答えである。その答えはたとえば、「鯰が竹に跳ね上がるのを待て」であり、「瓢箪が転げまわり、鯰が泳ぎまわれば、草木国土山河大地も思わす笑い出す」であり、「瓢箪が鯰を押さえるのではなく、鯰が瓢箪を押さえるのだ」などである。あるいは、余白につけ加えれば、人が瓢箪で鯰を掴まえようとすればするほど、自分が人であるのかはたまた瓢箪であるのか鯰であるのか終いに分からなくなってしまう。「瓢箪鯰」という言葉がある。捉えどころのない、要領を得ない者のことである。この言葉はこの「瓢鮎図」から出たものであるという。桔梗に人生を重ね合わせる者とおよそ真逆の者といえる。紫を秘めに秘めつつ白桔梗 相生垣瓜人。

「あたりの田畑にも冬枯れの気配が漂い、傾きかかった太陽も鈍い光を斜めに投げかけるだけといった何の変哲もない田舎の一本道に眠狂四郎が姿を見せ、急ぐでもなく、歩調を緩めるでもなく、こちらに向けて進んでくる。武士道を極めつくした剣豪の克己的な近寄りがたさというより、あまたの欲望を断ち切ろうなどとは思ってもみない男の生ぐさい執念と、信じるものとて一つとしてない素浪人の覚めた諦念とが、黒い衣装の裾を蹴りわけて進む市川雷蔵の足の運びに隠しようもなく漂っている。」(「「座頭市」や「眠狂四郎」シリーズにもまして「剣三部作」を通して「来るべき作家」三隅研次を発見しよう。」蓮實重彦『映画に目が眩んで』中央公論社1991年)

 「福島・双葉町8月30日一部避難解除 原発事故で全町避難」(令和4年7月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)