道を歩いていて、どこかを通り過ぎようとして匂いに躓(つまず)くことがある。沈丁花匂ふ下京長者町 中村阪子。この作者は沈丁花の匂いに躓いた。場所は「下京長者町」であるという。が、下京に長者町は存在しない。『京都坊目誌』(1915年刊)に「中長者町通、東は室町に起り、西は油小路に至る。東長者町、仲之町、中橋詰町。」とあり、この「東長者町」が京都市中唯一の長者町と名のついた町であるが、「東長者町」は現在の上京区にあり、「鎌倉期には建治元年(1275)の文書に「上下町」の語がみられ、この頃、境界は不明だが京都を上町、下町に区分したことが知られる。「上京・下京」はこれを祖型とし、十四世紀以降、二条大路を境界線として一般的に用いた。━━明治二十二年(1889)に市制施行以降は、三条通を境とする上京区下京区の二区が発足」(『京都大事典』淡交社1984年刊)しているが、東長者町はこの区分でも上京の内であり、過去にも下京長者町は存在していない。長者町通の謂(いわ)れは、『京都坊目誌』にこう記されている。「上長者町通、東は烏丸に起り、西は千本西入に至る。凡(およ)そ古(いにしへ)の土御門大路にして。一に上東門通と稱す。開通沿革は上に同じ。街名起原、應仁亂後荒廢に屬し再開するに及び新在家と稱す。天正中(1573~93)此街の東に、貨幣の兌舗及び諸家の金殻を用達する者住す。當時富有の聞へあり。人呼んで長者と云ふ。街名之に起る。中下長者町之に同じ。」沈丁花は「下京長者町」という架空の町で匂い、沈丁花生死の境に薫じけり 渡辺水巴、とも詠まれ、闇濃くて腐臭に近し沈丁花 野澤節子、とも俳人に詠まれる。あるいは、沈丁や死相あらはれ死相きへ 川端茅舎。沈丁花どこかでゆるむ夜の時間 能村登四郎。部屋部屋のうすくらがりや沈丁花 桂信子。沈丁花はじめて匂ふ夜の外出 細見綾子。しかし沈丁花の匂いで躓き必ず思い浮かぶのは夜ではなく、午後の日差しの光景だ。その親類の家の東にリンゴ畑と竹藪があり、その家の西に鶏小屋があり、その塀を回した家の前は菜の花畑で、その畑の西側に平屋が並んでいて、その端の社宅を「いつものよう」に訪ねると、後に引っ越したことを知るのだが、家から誰も出て来なかった。この家かこの家の近くで沈丁花が匂っていたのだろう。翌月に一緒に小学に入学すると思っていた者が消え失せてしまっていたのである。「沈丁花がええ匂いです」と便りを貰ったことがある。それは実家の裏庭に咲いていたもので、その裏庭はすでになければ、沈丁花も匂うことはない。

「二人はあずま屋で冷たいものを飲む、もう夕暮れだったので、オーケストラは作曲者がその場にいることも知らずにヨハンのワルツをつぎつぎに演奏していく、カルラはふじの花の下でまったく比べようもないきれいな声で歌う、すると美しい調べがあたりに満ち、音の波が曲のリフレインをつぎつぎに運び去って行く、それらはどこへ行くとも知れず、行く先々にうふじの花の香りを運んで行くのであろう。」(『リタ・ヘイワース背信マヌエル・プイグ 内田吉彦訳 国書刊行会1980年)

 「富岡、4月1日に避難指示解除 夜の森中心とした復興拠点」(令和5年3月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)