山茶花や宿々にして杖の痩 廣瀬惟然。八十村路通が編集した『芭蕉翁行状記』に寄せた廣瀬惟然のこの句の「杖」の主は芭蕉である。自宅を処分し「おくの細道」の旅に出て以降、弟子や他人(ひと)様の宅を宿として来た芭蕉の杖も痩せ細り、あるいは杖のように痩せ細った芭蕉は、元禄七年(1694)十月十二日に五十歳で亡くなる。旧暦十月十二日は新暦の十一月二十八日に当たるといい、その死の間もなく目を惹いたのが山茶花の花であった、と惟然は詠う。惟然には芭蕉の「乾鮭も空也の痩も寒の内」が頭にあったかもしれない。紅葉のはじまった二尊院から祇王寺に続く嵯峨鳥居本を辿って東に道を折れる寂庵の生垣に山茶花が咲いていた。寂庵の山号曼荼羅山である。庵の北、化野(あだしの)念仏寺の向かいに二百七十メートル余の裾に茅葺の家の建つ曼荼羅山がある。盂蘭盆送り火に鳥居大文字が灯る山である。「思いがけない仏縁で、出家した私が嵯峨野に住みつくようになって庵をかまえた時、庵の庭から畠の彼方に黒々ともりあがった森が島のように見え、その森かげから大屋根の甍がのぞいていた。それが釈迦堂の森と甍だと気づいた時、私は小躍りしそうに喜んだ。あれほどあらゆる季節に訪れ、訪れる度仰ぎ見たなつかしい山門と、詣でた清凉寺を、毎朝勤行の度、わが持仏堂の窓から眺めることが出来るなど、誰が予想し得たことだろう。釈迦堂の森の彼方に嵯峨野は更にひらけ、その向うに屏風を置いたように双ヶ丘(ならびがおか)が横たわり、更にその彼方に京都の町をはさんで東山の連峰が横たわっている。比叡の四明ヶ岳の頂きまで仰ぎ見られるのである。それは予期しない絶景であった。私はわが寂庵の前から前の畠の小径をたどり釈迦堂の森をめざして歩いてみた。道はつきそうでつきず、細々と畠の中や藪かげの中につづき、間もなく厭離庵の背後へ出て、すぐ釈迦堂の土塀の脇へ出ていった。歩いて十分もかからない近さであった。それ以来、私は散歩の都度、釈迦堂を訪れ、広々とした境内で日向ぼっこをしたり、本堂の縁に腰をおろしたりして遊ぶようになった。」(「清凉寺瀬戸内寂聴『寂聴古寺巡礼』平凡社1994年刊)瀬戸内寂聴が庵に移り住んだのは昭和四十九年(1974)であるというが、いま寂庵の前は造成され小奇麗な家々が建ち、清凉寺までの道々の畠も消え、ひと筋南の観光道には土産物屋や飲み食いの店が並んでいる。昨年の十一月九日に寂聴が亡くなって一年が過ぎた寂庵は、道から斜(はす)に控える門を閉ざし、人気(ひとけ)の感じられぬほど静まり、垣の内に植わる竹や木々は主亡き後一度も人の手の入らぬような枝ぶりで鬱蒼と影を纏(まと)っていた。山茶花やなじみをうすく隣り住み 鈴木帰花。

 「私たちは渭河(ウエイホー)の峡谷を走っていた。宝鶏(パオチー)を出たあとは、だんだん土地が平らになってきて視界がひらけてきた。麦畑が広がり、人々が鎌で麦を刈り、それを束ね、運んでいた。どんよりと曇った蒸し暑い日だったが、刈り入れの季節だったから、午後の盛りでも畑には大勢の人が働いていた。胸丈ほどに育った麦の畑にたつ人々は、腰をかがめて鎌を使う時だけ姿が見えなくなった。」(『中国鉄道大旅行』ポール・セロー 中野恵津子訳 文藝春秋1994年)

 「高線量の理由推定 原子炉建屋の配管、ベント使用で汚染拡大」(令和4年11月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)