東大路通の色褪せた屋根を連ねる今熊野商店街の間から泉涌寺(せんにゅうじ)に向かう道は泉涌寺道と呼ばれ、二百五十メートル余を緩やかに上ると総門に出る。総門からいまは緑の樹と石垣に両側を囲まれ、曲がりながらまたなだらかな上りが続く参道を上って行くと、左手に瓦葺の大門が現れる。ここが東山連峰月輪山の泉涌寺である。大門は西に向き、門を潜って内に立てば、枝の撓み込む砂利道を下ったやや右寄りに、西向きに入母屋の瓦を滑らせる阿弥陀釈迦弥勒の三尊を祀る仏殿が見える。仏殿の真後ろには仏牙舎利(ぶつげしゃり)を祀る同じ入母屋の舎利殿が建っているが、坂を下るまでは見えず、その後ろの白塀に囲まれた霊明殿も坂の上からは見えない。参道の勾配と樹木と仏殿の屋根の高さが、浅い擂鉢の底を見るような狭い景色を作っているのである。参道の坂を下りて南寄りにある霊明殿は、歴代の天皇昭和天皇皇后までの位牌を祀っている。霊明殿の裏には、宮内庁が柵を廻らす第八十七代四條天皇以降二十数代の天皇皇后らの骨灰を葬る月輪陵(つきのわのみさぎ)があり、最後の火葬となった第百二十一代孝明天皇はその傍らの後月輪東山陵に葬られている。「京都の地古來名勝に富み、四季の風光常に佳なりとへども、觀光の客随って多く、やゝもすれば俗塵に潰されんとす。獨り泉涌寺の靈區は、翠緑滴る如き東山の南端に近く、伏見の半腹を擁し、西の方遙かに嵐山一帯を望み、地域瀟洒にして遠く人寰(じんかん)を絶つが故に、この寺畔に來る者、弔古の人にあらざれば、これ探奇の客人にして遊覧の俗人敢えて近づかず。而(しか)も寺域四萬四千五百二十三坪老松古杉蓊蔚(おううつ)として幾多の堂塔を繞(めぐ)り、清泉滾々(こんこん)として湧出し、清風颯々(さつさつ)として心気自ら爽かなり。さればにや四條天皇を始めとし、後水尾天皇以降歴朝の帝陵みなこゝに定められ、以て明治維新に及べり。」(「月輪陵」京都市役所編『京都名勝誌』1928年刊)明治維新を境に、天皇は仏教と決別しあるいは決別させられ、明治天皇の葬儀は神道で行われ、遺体は東京から汽車に乗せられ、泉涌寺と関わりのない伏見桃山に葬られ、京都に縁のなかった大正天皇は八王子の多摩陵に葬られた。「遠く人寰を絶つが故に、この寺畔に來る者、弔古の人にあらざれば、これ探奇の客人にして遊覧の俗人敢て近づかず。」人家から遠く離れていて、陵に葬られた故人を悼む皇族以外、景勝地を巡って旅をするような一般人の立ち寄る場所ではない、普通の者が観光で行くところではなかった、のが泉涌寺である。が、維新で寺領一千三百石余を国に返し、上地として二十三万二千百余坪あった土地も四万一千余に減らされ、宮内省から出ていた位牌を守る永続金も、戦後一銭も出なくなる。「仏法不思議王法に対座す」「王法不思議仏法に対座す」月輪陵に眠る第百十六代花園天皇が、紫野に大徳寺を開かせるため、二十年乞食姿で鴨川の五条橋の下にいた大燈国師妙超を探し出し呼び寄せた。衣を着替えず床にいる妙超のところに、花園天皇が檀上から降りて正面に座り、国を治める王法が仏法と膝突き合わせている、何と不思議なことである、といい、妙超は、民を導く仏法が王法とやらと面(つら)突き合わせている、何とも可笑しなことである、と応えたという。このような軽口を交わし合う関係は前時代のこととして失われ、泉涌寺の仏法は天皇の位牌に線香を灯すだけのものになってしまったのである。が、世間に檀家を持たない泉涌寺は、線香を灯すだけではどこからも収入は得られない。京都の他の寺もそうしたように、泉涌寺も書画骨董を売り土地を売り、昭和三十一年(1956)、百年に一度しかその扉を開けなかったという中国南宋伝来の、玄宗皇帝がその死を悼み作らせたという楊貴妃観音を「遊覧の俗人」に公開するのである。「(楊貴妃観音は)宝相華唐草を透彫りにした宝冠を頂き、手には極楽の花たる宝相華を如意型に仕立てたものを持ち、端然静座せる温顔微笑は、人間が残した芸術の中では最高である。━━慈悲を表わす聖観音の唇の微動、繊糸のように細い眉、口許の髯、顎鬚、額の白毫に粛然と纏め上げられておる。双眸の下には涙が湛えられておる。」(「泉涌寺」中村直勝『カラー京都の魅力 洛東』淡交社1971年刊)楊貴妃観音は、小屋のような堂の奥の扉の中にひっそり置かれている。抑えた照明のせいで、双眸に涙を湛えているかどうかは分からない。が、人をあわれみ救済するのが観音である。泉涌寺の僧もまた自ら、百年の眠りを醒まさせ秘中の楊貴妃観音に縋(すが)ったのである。大門の根元に腰を下ろしていた老人が立ち上がり、背筋を真直ぐに杖を突いて歩き出し、参道を下り、左に道を折れ、桜の繁るその道を暫く行くと、塔頭悲田院の朱の門に出る。内に入り花の終わった萩の庭を横切り、堂の脇に回ると、眺望のきく所に出る。海抜七十メートル余のその高さから市街が見え、老人はペンキの剥げた手摺りを掴みながら、下の家並に顔を向ける。家の建つ下の窪地は皆、泉涌寺が手放した土地である。老人が不意に、「おーい。」と大声を出した。老人の視線の先にある二階家のベランダで、布団を抱えながら女が手を振っている。老人より三回りは歳の離れた女である。女は老人の実の娘か、息子の嫁か、身の回りの世話をしている縁者か、通いの手伝いか、あるいは妻であるのかもしれない。玄宗皇帝は、息子の嫁の楊貴妃を自分の妃にした。手を振った女がそのどれであっても、泉涌寺で微笑む者は楊貴妃である。

 「定住は、女性の地位に関しても問題をもたらした。狩猟採集民は定住すると、事実上、漁労や簡単な栽培・飼育によって生きるようになるが、狩猟採集以来の生活スタイルを保持した。つまり、男が狩猟し女が採集するという「分業」が続いた。が、実際には、男の狩猟は、儀礼的なものにすぎない。定住化とともに、必要な生産はますます女によってなされるようになる。だが、このことが女性の地位を高めるよりもむしろ、低下させたことに注意すべきである。何も生産せずに、ただ象徴的な生産や管理に従事する男性が優位に立ったのである。」(『世界史の構造』柄沢行人 岩波現代文庫2015年)

 「福島県内「環境回復」…大幅に速く チェルノブイリと『比較』」(令和2年10月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)