善良に公園の薔薇見て帰る 富安風生。一見、何やら飲み込みがたい思いのする句である。その理由は、「見て」に掛かる「善良」という言葉にあり、「善良に見る」という表現が、日常口にしないからかもしれない。先生が子どもを諭す時、善良になれ、不良になるなと言葉を使うことはある。世の中に品行方正な善良者が仮にいるとして、その者がものを見る時、自ら「善良に見る」とは恐らく云わないし、回りの者がそのことを「善良に見ている」とも恐らくは思わない。が、この句では自らが善良な態度で公園の薔薇を見た、と云う。あるいは、善良な態度で薔薇を見ている者がいたということなのかもしれない。であれば、どのような振る舞いがこの聞きなれない「善良に見る」ということなのか、と改めて読み手は疑う。いやそうではなく、ごく普通に見ていただけである、と作者の声は返って来る。であれば、作者は気づいたのである、誰もがするごく普通に薔薇を見る様子、振る舞いが「善良」そのものであると。薔薇の前で、自分は善良に振る舞っている、あるいは誰でも善良に振る舞っているように見える、と大袈裟に表現することを作者は「発見」したのである。俳句の解釈の常道の一つが滑稽であるならば、この普通に「見る」ことを「善良」にして仕舞った言葉の「発見」が、滑稽ということになる。加えれば、善良に行儀よく公園の薔薇を見て帰った小市民の、生真面目に休日を過ごした様子が、どこか物悲しくなくもない。もう一つつけ加えれば、「善良」という言葉を「発見」した作者、富安風生は戦前、逓信省の次官の職にあった高級官僚である。京都府立植物園で、交配を重ねて作った薔薇が幾つも十一月の小春の下で咲いていた。薔薇は、剪定によって一年に三度花を咲かせることが出来るという。薔薇は夏の季語であるが、冬薔薇は冬の季語である。袂には青きバットよ薔薇のみち 下村槐太。小さな印刷屋の主(あるじ)だった下村槐太は、安タバコのゴールデンバット一箱だけを着古した着物の袂に入れ、町中のあるいは町外れの薔薇の咲く道をひとり歩いて行く。この薔薇は、下村槐太にとっては気位の高い花かもしれず、この道は茨の道であるかもしれない。

 「ちょうど沿線沿いに小菊の茂みが満開の箇所が幾つもあるが、光のない沈んだ空間に乾ききってくすんだ小菊の花は、葬式の造花に似て見えた。電車はひっそりと止まっては走り、客たちは静かに乗って降り、丸顔の車掌のひとなつこい声だけが浮き浮きと聞こえる。いまどき、自分の仕事をこんなに楽しんでいる人間を見かけたことはない。たとえば迷える魂を呼び寄せては、それぞれに行く先を決めてやるといったような、超現実的な使命を遂行している番人を想わせる。」(「<私>という宇宙誌」日野啓三『魂の光景』集英社1998年)

 「県産米の抽出検査終了 対象353の旧市町村で基準値超えなし」(令和2年11月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)