アサギマダラが目の前にいる。この蝶は秋の終わる頃、台湾香港までも二千キロを越える海の上を渡って行き、また夏になるとその同じ距離を戻って来るのだという。渡り来れば、夏でも気温の低い高原の葉っぱの裏に卵を産みつけ、蛹から孵(かえ)ればあとは、誰かに命じられているわけでもなく、何事かから逃れるわけでもなく、帰る家もなく、ただひたすら花を求めて飛び続けなければならない。生物学あるいは物理学は、この行動の謎解きに知恵の情熱を燃やすのかもしれないが、アサギマダラには経済学もなく、文学もなく、宗教もなく、善悪もない。が、蝶を目にする人間はこのような習い覚えた物差しを使うことから逃れることが出来ず、それが故にいつまでも蝶のように軽やかになることが出来ない。二匹のアサギマダラが、藤袴の花の間を飛び交っている。この藤袴は自生しているのではなく、すべて鉢植のものである。ここは御所の南東、丸太町通から寺町通を下ってすぐの革堂(こうどう)という名で通る行願寺の境内である。十月半ばの四日間、藤袴祭という催しがあり、革堂はその会場の一つになっているのである。藤袴の鉢は寺町通の歩道にも通りの商店の軒下にもぽつぽつ並べられ、祭りは京都自生の藤袴が絶滅の危惧に晒されているのを憂え、その保存のために始めたのだという。千年を越える歴史を持ちながら移転をさせられる度に狭くなった革堂の境内には、三百余りの一メートル丈の藤袴が通る幅の両側に、列を成して並んでいる。枝の先に白に薄い赤紫色の小さな花が幾つもかたまって咲き、花そのものに匂いはなく、手折られ、あるいは土から引き抜かれ乾き出すとこの花は匂い立つのだという。アサギマダラのオスは、この藤袴と同類の二三の花の蜜しか吸わず、この花の蜜の成分を吸わなければメスを誘い出すことが出来ないというのである。何と世を捨ても果てずや藤袴 八十村路通。芭蕉に見出された乞食路通は、世を捨て乞食に身を落とし、その日暮らしに叢(くさむら)に寝そべっている時、藤袴を目にし、自分が死んでもこの藤袴はこの世にあり続けるのであろうと思う。が、いまは鉢植にして育てなければ、藤袴の生存は危(あや)ういのである。であれば放っておけば旅するアサギマダラの生存も危(あや)うくなるということである。行願寺が革堂と呼ばれる謂(いわ)れは、寺を開いた行円がまだ狩りで暮らしを立てていた時、子を孕んでいた雌鹿を殺し、殺生を悔い、その雌鹿の皮を身に着け仏門に入ったからだという。戦国期の末、京都に一向一揆が迫り来た時、集った町衆は革堂と下京にある六角堂の鐘を昼も夜もなく鳴らし続けた。世の危機に警鐘を鳴らしたこの町衆らは、後には市中で法華一揆を起こすことになるのであるが。

 「祖母は、「おぼくさん」と呼んでいた仏壇に供えたごはんを私に食べさせながらこの歌(明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは)の意味を話してくれた。「おぼくさん」は、朝、ごはんをお櫃に移す時に、真鍮の仏様用の小さな容器に山盛りに盛りつけ、お水と一緒に上げるのである。夜には固くなり、線香の匂いがしみついて、お世辞にもおいしいものではなかったが、祖母は、ご利益があるといっては、必ず私に半分を呉れ、自分も女にしてはしっかりした骨太の掌に受けて食べていた。食べ終ると、私は祖母が仏壇の小抽斗から出してくれる桃の形をした小さい扇で、灯明を消し、ギイと戸をきしませて仏壇の戸をしめて、祖母と私の一日が終るのである。」(「あだ桜」向田邦子『父の詫び状』文藝春秋1978年)

 「「海洋放出」10月内にも決定、処理水処分、第1原発敷地から軸」(令和2年10月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)