アーユージャパニーズ。目が合って一方的に話を始めたその者はその前に、あの氷のようなものは何を意味しているのか、とひとり言のようなものいいで云った。首に身分証をぶら下げた七十前後の痩せた小柄な女である。その氷のようなものは、山門の石段に伸びる参道の傍らにあった。ここはツクツクボウシの鳴きしきる東山法然院である。女は、山門の内の石段を下りてゆく恐らくは夫婦であろうどちらも白髪の白人ふたりに英語で声を掛ける。白人夫婦は、その氷のようなものを足を止めて見ていた。その氷のような柱は、杉の根方や苔と石の間に幾本か傾いて立ち、白砂の中にもその欠片(かけら)のようなものが幾つか転がっている。身分証をぶら下げた女は、ステンレスのプレートを見落としたのかもしれない。それには、「つながる、西中千人」と書いてある。あるいはそれを読んだ上で、何を意味しているのか分からないということなのか。身分証にミチコとあるのを見れば、女も恐らく日本人であるのであろう。それでも日本人が日本人に、その氷のようなものの意味を問うているのである。質問に質問で返すというのは、行儀のいいことではない。例えば、あなたはどう思うのか、あるいはあなたも日本人ではないのか。女は正直なのかもしれない。「つながる」と題されても、その氷のようなものからは何も頭に浮かんで来ないし、そうであれば案内をしている白人夫婦の質問に応えることが出来ない。が、同じ日本人であるあなたなら、もしかしたら知って説明が出来るのではないか、これを作った者も同じ日本人なのであるから。が、ミチコという身分証をぶら下げた女が云った、あなたは日本人かという問いは、苔や白砂の上に氷のような柱が立ち並ぶのを前にして、一瞬身を怯(ひる)ませる。その一瞬は女には長く、女は続けてもう一つの質問を口にする。山門の内の石段を下りた細い参道の石畳の両側に、巨大な豆腐か蒟蒻を置いたような砂の山があり、白沙壇(はくさだん)というらしいが、これは何であるのか。それには型通りの答えがある。上に筋目をつけた平らな砂山は水を表わし、その間を通ることで身を浄めるというのである。そのことは知っていると、ミチコという女は応える。が、その説明ではもの足りないという口振りをこの女はするのである。人間が水で身を浄めるということは、どの宗教にもある。インドでも日本でも、神に触れる前に川の水に浸る。が、それはやがて手を濡らし、口を漱ぐだけに省略される。神というものを、恐らくは軽んじはじめたからである。仏の前でも当然人は俗に塗(まみ)れ、慾に塗れ、汚(けが)れている。であれば手を合わせる前に人は水で身を浄め、己(おの)れが汚れていることを認めなければならない。法然院の水は、砂である。庭に敷いた砂は、水に見立てられる。故(ゆえ)に砂山は水なのである。この砂、水の山の間を通ることで身を浄めるということは、人が認めたのではない。仏がそれを良しとしたのである。そう日本人は考えるのである。日本という国で生まれ、日本語でものを考える者は、アーユージャパニーズと訊かれれば、イエスと取り合えずは応える。が、なぜ砂は水なのか、あるいはなぜ水は砂であるのか。あの参道に立つ氷のような柱は、溶かしたガラス瓶で出来ているのであるが、ガラスはガラスであり、それが「つながる」と題されても、ミチコという身分証をぶら下げた女が何も思い浮かばないとしたら、それは紛れもなく日本人であるからに違いない。日本人の直観は奥ゆかしく、分からぬ己(おの)れ自身を疑うかもしれない。がその直観の見定めは、砂を水と思うことであり、ガラスをガラスと思いなすことである。

 「私の家のテラスのみかげ石の柱のところに一本の丈髙いバラの木が伸びている。今年の花はとうにおわり、その根元にモントブレチアの低いこんもりとした繁みと、いくらか老化しすぎたクルマユリが生えている。これはおそらく一週間後には最初の花をつけるだろう。このユリの葉かげから、私は強い日光で目がくらんでいたが、何か黒いものが音もなく、影のようにふわっと舞い上るのを見た。それは小鳥ではなかった。蝶であった。」(『蝶』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 岩波書店1992年)

 「「東電強制起訴」19日判決 東京地裁、大津波予見可能性焦点」(令和元年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)