京都は、坂本龍馬が殺された場所である。その日、坂本龍馬は京都にいる理由があり、殺される理由があった。その日とは慶応三年(1867)十一月十五日である。そのひと月前、坂本龍馬の言葉で云う「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜(ヨロ)シク朝廷ヨリ出ツへキ事。」の通りに、徳川幕府から政権が朝廷に還った。黒船が来て、不平等条約を交わした幕府は外国に対する己(おの)れの無能を世に晒し、自信を喪失してしまったのである。坂本龍馬のこの言葉は、土佐に帰る船で一緒になった土佐藩参政後藤象二郎に語ったという船中八策の第一で、第二以下はこうである。「一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公儀ニ決スヘキ事。一、有材ノ公卿・諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備へ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クヘキ事。一、外国ノ交際広ク公儀ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツヘキ事。一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮の大典ヲ撰定スヘキ事。一、海軍宜シク拡張スヘキ事。一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムヘキ事。一、金銀物貨、宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クヘキ事。」坂本龍馬は、咸臨丸でアメリカを見て来た勝海舟大久保一翁から得た知識と直観で、この船上八策を練り上げた。武器商人でもあった坂本龍馬は、薩摩の名で買った武器を弓を引いて京都を追放された長州に流し、その同盟を取り持つと、徳川幕府薩長の倒すべき敵となる。が、土佐藩山内容堂は幕府と勤王攘夷の薩長討幕派との調停に動き、朝廷と幕府に「大政奉還ニ関スル建白書」を提出する。その案は、後藤象二郎坂本龍馬から聞いた船中八策が基になったものである。「宇内ノ形勢古今之得失ヲ鑑シ誠惇誠恐敬首再拝、伏惟皇国興復之基業ヲ建ント欲セハ、国体ヲ一定シ政度ヲ一新シ王政復古万国万世ニ不恥者ヲ以来旨トスヘシ、好ヲ除キ良ヲ挙ケ寛恕ノ政ヲ施行シ朝幕諸侯薄ク此大基本ニ注意スルヲ以方今急務奉存候、前月四藩上京一三献言ノ次第モ有之、容堂義病症ニヨツテ帰国仕候以来、猶又篤ト熟慮仕候ニ実ニ不容易時態ニテ安危之決今日ニ有之哉ニ愚存仕候、因テ早速再上仕右之次第一乍不及建言仕候志願ニ御座候所、今ニ到テ病症難渋仕不得止微賎之私共ヲ以愚存之趣乍恐言上為仕候。一、天下ノ大政ヲ議定スルノ全権ハ朝廷ニアリ、乃我皇国ノ制度法制一切万機必京師ノ議政所ヨリ出ヘシ。一、議政所上下ヲ分チ議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至ルマテ正明純良ノ士ヲ撰挙スヘシ。一、庠序学校ヲ都会ノ地ニ設ケ長幼ノ序ヲ分チ学術技芸ヲ教導セサルヘカラス。一、一切外蕃ト之規約ハ兵庫港ニ於テ新ニ朝延ノ大臣ト諸藩ト相議道理明確之新条約ヲ結ヒ誠実ノ商港ヲ行ヒ信義ヲ外蕃ニ夫セサルヲ以主要トスヘシ。一、海陸軍備ハ一大至要トス軍局ヲ京摂ノ間ニ造築シ朝廷守護ノ親兵トシ世界ニ比類ナキ兵隊ト為ン事ヲ要ス。一、中古以来政刑武門ニ出ツ洋艦来港以後天下紛々国家多難於是政権梢動ク自然ノ勢ナリ今日ニ至リ古来ノ旧弊ヲ改新シ枝葉ニ馳セス小条理ニ止ラス大根基ヲ建ルヲ以主トス。一、朝廷ノ制度法制従昔ノ律例アリトイヘトモ今ノ時勢ニ参合シ間或当然ナラサル者アラン宜其弊風ヲ除キ一新改革シテ地球上ニ独立スルノ国本ヲ建ツヘシ。一、議事ノ士太夫人私心ヲ去リ公平ニ基キ術策ヲ設ケス正直ヲ旨トシ既往ノ是非曲直ヲ問ハス一新更始今後ノ事ヲ視ヲ要ス言論多ク実効少キ通弊ヲ踏へカラス。右之条目恐ラクハ当今ノ急務内外各般ノ至要是ヲ捨他ニ求ムヘキ者ハ有之問敷ト奉存候。然則職ニ当ル者成敗利鈍ヲ不顧一心協力万世ニ亘テ貫徹致シ候様有之度若或ハ従来ノ事件ヲ執テ弁難抗諭朝幕諸侯互ニ相争ノ意アルハ尤然ヘカラス是則容堂ノ志願ニ御座候、因テ愚昧不才ヲ不顧大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第全ク御聴捨ニ相成候テハ天下ノ為ニ残懐不鮮候、猶又此上寛仁ノ御趣意ヲ以微賎之私共ト難御親問被仰付度懇願候。慶応三丁卯九月 寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛。」大政奉還は成り、坂本龍馬は喜んだ。が、徳川は政(まつりごと)の主導から手を引いただけで、薩長倒幕派の目標はあくまで徳川の消滅である。十一月十五日の夜、河原町通蛸薬師下ル塩屋町の醤油商近江屋の二階にいた坂本龍馬中岡慎太郎は暗殺される。薩摩の挑発と謀(はか)りに煽(あお)られた徳川側は、薩摩を討ちに起つ。が、翌慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いが負け戦となり、朝敵とされれば勝ち目はなく、戊辰戦争で徳川側は留めを刺される。が、坂本龍馬の思いは、このようなことで血を流さないこと、戦争の回避にあった。坂本龍馬の額を割って殺害したのは、京都見廻組であるといわれている。京都見廻組は、新撰組と同じ京都守護職松平容保の配下組織である。会津藩出の佐々木只三郎が六人の部下を引き連れて、坂本龍馬の宿に入った。坂本龍馬はなぜ京都にいたのか、佐々木只三郎の見廻組はなぜ坂本龍馬を襲ったのか、言説は巷に溢れている。が、近江屋に坂本龍馬がいることを知っていて、見廻組に殺害を命じた者が本当は誰であるのかは分かっていない。見廻組の生き残り、今井信郎は後の取り調べで、自分は見張り役で何も知らないと応え、夜を待って八時過ぎまで東山の辺りをぶらぶらしながら時間を潰していたとも応えている。坂本龍馬を殺すため、時間潰しに東山の辺りをぶらぶらしていたというもの云いは、どこか心が動く挿話である。

 「辻が花という名のよって来るところは判らない。要するにそれは絞り━━主として模様の輪郭線に沿って縫いこれを引き締めて絞る。縫い締め絞り━━によって多彩な絵模様を現わしたものである。ところで元来絞りというものは、技術的にはこうしたことに最も不適格なものといわなければならない。絞った模様の周辺はぼやけるし、多色に染めるためにはそこだけをつまんで染めるか、絞ったところを解きながら何回にも色をかけなければならない。この制約された技術を用いてひたむきに、この多彩な絵模様への道を追い求めた辻が花染めは、そのさいはての野に咲いた妖しいまでの美しい花とでもいおうか、そこには一種の寂しさの籠った、華やかさがある。」(『日本美術体系 Ⅷ 染織』山辺知行 講談社1960年)

 「二審も国、東京電力に責任、原発生業訴訟判決、10億円賠償命令」(令和2年10月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)