平安京の碁盤の正方形の枡目に南北の線、新しい通りを加え、一部の枡目を長方形にしたのは、天下人豊臣秀吉であり、その線引きは天正の地割といわれている。地割は、正方形に区切られた内の風通し、人流れを作る都市計画の実行であったが、例えば五条天神社、天使社の敷地に通した天使突抜通は、秀吉の強引さをその名で表わしている。天正の地割は、単純な動機と明快な線引きであった。が、四条室町を中心とした区域、北を東西に走る姉小路通から一筋づつ下る三条通六角通蛸薬師通錦小路通四条通綾小路通仏光寺通高辻通までの南と、東を南北に走る高倉通から東洞院通烏丸通室町通新町通西洞院通油小路通までの西の間の枡目にはその線引き、地割は及んでいない。通説では、この区域は平安から続く祇園会の鉾町として十分に商業が発達しており、再開発の必要がなかったと説明する。あるいは、町衆住人の抵抗に遇い、その意を酌(く)んだ秀吉が己れの意を引込めた、と解する者もいる。「了頓辻子(リョウトンノズシ) 三條ノ南(ミナミ)室町與(ト)新町之(ノ)間也。相傳(アイツタ)フ廣野了頓、祖元足利家之(ノ)從臣ニシテ而(シコウ)シテ義晴公義輝公之(ノ)時ニ至リ采地(サイチ)少シノ許(ユル)シ有。末裔(マツエイ)ニ至リ民間ニ流落シ、斯(コ)ノ所ニ住シ、剃髪(テイハツ)シテ了頓ト號(ゴウ)ス。甚(ハナハダ)茶ヲ嗜(タシナ)ム故(ユヘ)ニ茶亭ヲ構ヘ、常ニ釜於(ヲ)爐(ロ)ニ置ク。人、來訪ヘバ則(スナハチ)菓ヲ供シ、茶ヲ點(テン)ジテ而(シコウ)シテ之(コレ)ヲ遇(グウ)ス。豊臣秀吉公、播州姫路城ニ在ル時、入洛ノ日必ズ新町三條ノ南、伊藤某之(ノ)宅ニ寓(グウ)被(セラ)ル。伊藤、了頓與(ト)其居相近ク、秀吉公豫(アラカジメ)了頓ニ告ゲ不(ズ)一時俄然(ガゼン)了頓宅ニ入ル。茲(ココ)ニ於(オイ)テ履(ハキモノ)ヲ逆(サカサ)ニシテ而(シコウ)シテ出(イ)デテ之(コレ)ヲ迎ヘ、茶亭ニ請(コ)フ。時ヲ于(オイ)テ釜湯沸騰サセ則(スナハチ)茶ヲ點(テン)ジテ而(シコウ)シテ之(コレ)ヲ獻(ケン)ズ。秀吉公亦(マタ)茶ヲ嗜(タシナ)ム故(ユヘ)大(オホ)イニ了頓之(ノ)志ヲ感ジ則(スナハチ)家領(ケリョウ)ヲ賜(タマ)フ。其末孫今ニ至リテ然(シカ)リ。故(ユヘ)ニ此ノ町ヲ了頓辻子ト號(ゴウ)ス。」(『雍州府志』)代々足利家に仕えた広野家の末裔で、刀を捨て茶人となった了頓の元に、予告なしに訪れた豊臣秀吉に茶を点ててもてなして領地を賜り、その住まいの地を了頓辻子というのが、おおよその意味であるが、通り抜けることの出来ない路地(ろーじ)に対して、通りから通りへ抜けることの出来る小道を辻子(ずし・図子)という。この了頓辻子は、室町通新町通の間、三条通六角通を繋ぐ小道である。了頓辻子は、茶人了頓の住まいにある小道であるから了頓辻子というこの辻子の説明であるが、この域は、秀吉の地割が入っていない場所にあり、了頓辻子の三条通を挟んだ北側には、衣棚通(ころものたなのとおり)という地割で出来た通りが走っている。天正の地割は、天正十八年(1590)で、了頓が茶でもてなした秀吉が姫路城の城主であったのは天正八年(1580)から天正十年(1582)の間である。秀吉の地割は、了頓の住まいを割らず、その手前でとどまった。が、了頓は人をもてなすため、住まいに辻子を通し、秀吉の地割の通りの先に道を付けた。了頓辻子は、秀吉の家領に対する了頓の返礼なのである。子供時代、裏隣の庭先を通って学校に通(かよ)っていた。そこを庭の一部ではなく、道であると思っていたのである。維新を経てなお住まいのあった了頓の末裔は、明治の半ばには土地を売り、辻子を去って行った。

 「夜になると彼がぼくを車で家に送り、辺りが真っ暗闇になる前に、なんとか羊にもう一度餌をやることができる。その仕事を終えるとほとんどいつも、ぼくは夕食を食べに家に入って行く気がどうしてもしない。時々、ぼくはただ外に立って、家の中で家族が動き回るのを見ている。時には、長い間じっと立ち続ける。家族たちはぼくが彼らを見ているのを知らない。」(サム・シェパード 畑中佳樹訳『モーテル・クロニクルズ』筑摩書房1986年)

 「「ストロンチウム」大幅減 第1原発、海側遮水壁完成から半年」(平成28年4月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)