鬱金(ウコン)桜は遅咲きで、ソメイヨシノがあらかた散った後に花をつける。花弁は八重で、色は鬱金、生姜(しょうが)を切った薄黄色である。そのデジタル写真のデータは、2012年4月15日13:01となっている。場所は、東京の新宿御苑である。新宿御苑は、だだっ広い芝生で家族が持参の弁当を頬張っている平和を絵にしたような公園である。写真には鬱金桜が写っていて、その鬱金は、花の重みに耐えかねるように、枝が地に付かむばかりに撓(たわ)んでいて、枝の向こうに人の姿があるのであるが、その者の膝から上は鬱金色の満開の花が蔽(おお)っている。それがはじめて目にした鬱金桜の花と花の色で、苑では楊貴妃(ようきひ)桜もまだ花をつけていたかもしれない。不手際の重なりで唯一手元に残ったその写真が思い起させるのは、芝生で足を伸ばしながら、いまこの時も前年の震災を思わないではない、というその時の気分である。日の当たる場所で、そのことを考えないわけではないという思いである。仮に考えるとしても、考えることは、最も小さなことでなければならない、と思ったことである。最も小さなこととは、些細(ささい)なことではなく、小さなこととして思われている、あらゆることである。清和源氏の祖、源経基(みなもとのつねもと)を祀る、六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)の鬱金桜を見た日の夜、熊本で大地震が起きた。鬱金の鬱の意味の第一は、木が群がり茂ること、であり、集り、溜ることであり、もの思う、憂える、不満が募(つの)る、恨む、憤(いきどお)るである。金の意味は、貴(たっと)いである。貴い憤りは、小さなものを思うことに含まれている。

 「曙光は人間に、寒暖計や気圧計や、文明化されていない人々にとっては月の満ち欠けや鳥の飛翔、あるいは潮の干満などの補いになる指示を与えるに過ぎない。ところが日没は、人間を高め、彼らの肉体が今日一日その中を彷徨(さまよ)った、風や寒暖や雨の思いがけない移り変りを、神秘な形象のうちに集めてみせるのである。」(レヴィ=ストロース 川田順造訳『悲しき熱帯』中央公論社1977年)

 「海洋放出…最短・低コストで処分 汚染水対策・トリチウム処理」(平成28年4月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)