七月二十四日の祇園会後祭の黒主山の今年の巡行の順は七番目である。「謡曲「志賀」にちなみ大伴黒主が桜をあおぎながめている姿をあらわす。御神体(人形)は寛政元年(1789)五月辻又七郎狛元澄作の銘を持つ。山に飾られる桜の造花は粽と同様に戸口に挿すと悪事が入ってこないといわれている。水引は雲龍文様の繻珍、前懸は萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元した五爪龍文様錦、胴懸は草花胡蝶文様の綴錦、見送は平成十六年(2004)に牡丹鳳凰文様が復元新調されている。別に宝散し額唐子嬉遊図が復元新調されている。人形着用の古衣装には、延宝三年(1675)在銘の紺地菊唐草文様小袖及び正徳元年(1711)在銘の萌葱絽地牡丹文様色入金襴大口袴があり、江戸時代初期在銘の貴重なものである。また平成十二年(2000)には、後懸の飛龍文様綿入刺繍が新調された。」(「黒主山」公益財団法人 祇園祭山鉾連合会)巡行前日の「宵山」の夜までこの人形や水引や前懸胴懸などは、室町通三条下ル烏帽子屋町のビルの玄関前の、粽や御守や手拭いを売るテントの間を抜けた会所に飾られ、間近に目にすることが出来る。御神体大伴黒主は白く長い顎鬚を生やし、痩せて窪んだ目で中空を見上げている。身につけているのは固く折り目のついた灰がかった深緑に金襴の衣裳である。いま人形の前に桜の花はないが、謡曲「志賀」では薪を背負った年寄りの山賤(やまがつ、樵)と若い山賤が山路をやって来て山桜の下に腰を下ろす。目の前に現れたその二人を目にした廷臣(ていしん、朝廷に仕える者)とその従臣は、「不思議やな是なる山賤を見れば、重かるべき薪になを花の枝を折り添へ、休む所も花の陰なり」と思い、廷臣が「これは心ありて休むか、只薪の重さに休み候か」と尋ねる。それに対して年寄りの山賤はこう応える、「━━薪に花を折事は、道野辺のたよりの桜折り添へて薪や重き春の山人と、歌人も御不審ありし上、今更なにとか答へ申さむ。━━ただ薪の重さに休むかとの仰(おほせ)は面目なきよなふ、さりながらかの黒主が歌のごとく、其様賤(いや)しき山賤の、薪を負ひての花の陰に、休む姿はげにも又、其身に応ぜぬふるまひなり、許し給へや上臈(じやうらふ)たち」桜の枝を折って薪に添えましたことは、「道の辺のたよりの桜折り添へて薪や重き春の山人」とさる歌人も不審にお思い詠んでおられますが、わざわざお応えするようなことではありません。それともたまたま背負ってる薪が重くなって花の下で休んだのかと訊かれれば、些(いささ)かの風流心からこのような姿をお見せしてしまい、お恥ずかしいことでございます、そうではございますがかの黒主の歌のようなこのような賤しい樵が薪を背負ったまま桜の下で一息つく姿は、身分不相応の振る舞いでございました、どうかお許し下さい御役人様。が、こう応えたこの年寄りこそが大伴黒主本人であり、このあと、和歌の第一人者である『古今和歌集』の編者紀貫之を讃え、貫之の言葉こそが古今の道を示したものであるとこの謡曲「志賀」のテーマである和歌の徳や魅力を朗々と語り、年寄りは己(おの)れが祀られている滋賀の黒主明神の家路を帰って行く。この謡曲「志賀」の元となっているのは、『古今和歌集』の紀貫之の「仮名序」にある六歌仙大伴黒主に対する「大伴黒主は、その様いやし。言はば薪負へる山人の、花陰にやすめるがごとし」という云いである。この「いやし」い様とは、へそ曲がりで気取っているというような様であろうか。『古今和歌集』に載る大伴黒主の歌はこの四首である。「春さめのふるは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ」「思ひいでて恋しきときははつかりのなきてわたると人知るらめや」「鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると」「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」同じ六歌仙の一人、小野小町謡曲「草紙洗小町」に出て来る大伴黒主は、「志賀」の黒主とまったく別人のように描かれている。「草紙洗小町」はこのような話である。四月半ば、天皇の住まう清涼殿での歌合が大伴黒主小野小町に決まると、黒主はある「企て」をたくらんだ。歌合の前日、黒主は小野小町の屋敷に忍び込み、小町の口から出た歌合で披露されるであろう歌「蒔かなくに何を種とて浮草の波のうねうね生ひ茂るらん」を「蒔かなくに何を種とて瓜蔓の畑の畝を転び歩くらん」と連れの者と聞き取って、手元の万葉集の草紙にその歌を書き入れる。歌合の当日、帝や紀貫之歌人の前で小野小町の「その歌」が詠み上げられる。と、黒主は「その歌」は万葉集に載る古歌であると、小町の顔に泥を塗るような言葉を云い放つ。それを聞いた小町は、万葉集四千三百首知らぬ歌はない、自分が詠んだ歌は古歌ではないと主張する。黒主は、全部知っていてなお同じ歌を詠むとは不思議であると返す。帝が黒主にその証拠を示せと命じ、黒主が例の草紙を取り出すと座は動揺し、疑いの目に晒された小町もまた動揺するが、よくよくその草紙を見れば行間も乱れ、墨の色もその一首だけ違っているではないか。そう見て取った小町は草紙を洗わせてくれと願い入れる。が、貫之から「もし違えは恥の上塗りになる」と留められ涙を零して座を立ち去ろうとし、それを見た貫之は小町を呼び戻し、それならばと帝に草紙を洗う許しを得ると、小町は襷姿で庭から汲んだ水で「━━時雨に濡れて洗ひしは紅葉の錦なりけり住吉の久しき松を洗ひては岸に寄する白波をさつと掛けて洗はん」と口にしながら洗うと、黒主が書き加えた歌だけがみるみる流れ消え去ってしまう。企みがばれた黒主はその場で自害しようとするが、小町が「和歌の友としてあなたがいてこそ私の名が残る」と言葉をかけ、帝が黒主を許し、小町と黒主は和解する。この「草紙洗小町」も作り話である。が、一条通堀川東入ルに半ば埋もれた「小野小町双紙洗水」と彫られた碑がある。小町が草紙を洗った時に使った水を汲んだ井戸がこの辺りにあったというのである。であればこの碑がある限り、黒主は歌合で不正を働いた「汚名」を晴らすことが出来ないかもしれない。

 「秀夫が行火蒲団(あんかぶとん)の端をめくって出かけに灰をかぶせていった炭団を掘り起こしてから炭をつぎ足しているあいだ、光子は長火鉢の銅壺から柄杓(ひしゃく)で汲んだ湯を琺瑯びきの薬缶に移して台所のガスでわかし直してきて茶をいれる。分担の呼吸はびったり合っているのだが、いったん沈黙の状態に入ってしまうと、日ごろから口数のすくない二人には、もはや切り出すべき話題がない。東京の各新聞は前年━━昭和十年の七月七日から日曜夕刊を廃止していたので、読むべき新聞もなかった。」(「風のない日々」野口冨士男『昭和文学全集14』小学館1988年)

 「処理水放出時期の政府決定迫る…漁業者との信頼構築、最終局面へ」(令和5年7月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)