江戸の絵師鈴木春信に、「夜の梅」と題する錦絵がある。暗い夜に手摺りのある張り出しの上に細い目の振袖姿の娘が立ち、振り向く様で頭上に伸びる白梅の枝に手燭をかざしている。あるいは「風流四季哥仙、二月、水辺梅」は、若い男が神社の朱い柵の上に登りながら白梅の枝に片手を掛け、その傍らで顔かたちが男とそっくりな若い娘が石灯籠の上にその灯りを遮るように振袖を垂らしながら片肘をつき、男の様子を見守っている。この画も夜である。あるいは「梅の枝折り」では、道に草履を脱ぎ捨てた振袖姿の娘が、両手を塀について腰を曲げ躰を支えている侍女の背に乗り、塀の屋根に片手をつきながらその外に突き出た白梅の枝を折ろうとしている。あるいは「臥龍梅」と札の立つ柵の前で、袋から刻み煙草を煙管(キセル)に詰めた若い女が、下駄をぶら下げ、風呂敷荷物を首に巻いた子どもの侍者を従えた若い男の煙管から火を貰おうとしている。この二人の顔もほぼ同じである。永井荷風は『江戸芸術論』の「鈴木春信の錦絵」で、このように述べている。「浮世絵版画は元禄享保の丹絵(たんえ)漆絵(うるしえ)より寛保宝暦の紅絵(べにえ)となり、明和年間に及び鈴木春信によりてここに始めて精巧なる彩色板刻の技術を完成し、その佳麗なるが故を以て吾妻錦絵の名を得るに至れり。春信出でて後、錦絵は天明寛政に至り絢爛(けんらん)の極に達し、文化以後に及びて忽(たちま)ち衰頽(すいたい)を醸(かも)すに至れり。今これら浮世絵各時代の制作品を把(と)つてこれらを通覧するに、余は鈴木春信の板画によりて最も深き印象を与へられたり。」「鈴木春信は可憐なる年少の男女相思の図と合せて、また単に婦人が坐臥(ざが)平常の姿態を描き巧(たくみ)に室内の光景と花卉(かき)とを配合せり。彼が描く処の室内の光景及び庭上階下窓外の草木は人物と同じく極めて単純にしてまた極めて写生に遠ざかりたるものなり。」「春信が女はいづれも名残惜しき昼の夢より覚めしが如き目容(まなざし)して或(ある)ものは脛(はぎ)あらはに裾敷き乱しつつ悄然(しょうぜん)として障子に依りて雨斜に降る池の水草を眺めたる、あるひは炬燵(こたつ)にうづくまりて絵本読みふけりたる、あるひは帯しどけなき襦袢の襟を開きて円(まろ)き乳房を見せたる肌に伽羅(きやら)焚きしめたる、いづれも唯美し艶(なまめか)しといはんよりはあたかも入相(いりあい)の鐘に賤心(しずこころ)なく散る花を見る如き一味(いちみ)の淡き哀愁を感ずべし。余は春信の女において『古今集』の恋歌(こいか)に味(あじわ)ふ如き単純なる美に対する煙の如き哀愁を感じて止まざるなり。人形の如き生気なきその形骸と、纏(まと)へる衣服のつかれたる線と、造花の如く堅く動かざる植物との装飾画的配合は、今日(こんにち)の審美論を以てしては果していくばくの価値あるや否や。これ余の多く知る処にあらざる也。余は唯此(かく)の如き配合、此の如き布局よりして、実に他国の美術の有せざる日本的音楽を聴き得ることを喜ぶなり。この音楽は決して何らの神秘をも哲理をも暗示するものにあらず。唯吾人(ごじん)が日常秋雨の夜の聞く虫の音、木枯の夕(ゆうべ)に聞く落葉の声、または女の裾の絹摺(きぬず)れする響等によりて、時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデーに過ぎず。浮世絵はその描ける美女の姿態とその褪(さ)めたる色彩とによりて、いづれも能(よ)くこの果敢(はか)なきメロデーを奏するが中(なか)に、余は殊(こと)に鈴木春信の板画によりて最もよくこれを聴き得べしと信ずるなり。」(永井荷風『江戸芸術論』岩波文庫2000年刊)荷風の云う「時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデー」に耳を傾けるならば、若い男の朱い柵の上に足を掛けて梅の枝を折る画からも、娘が侍女の背中を借りて梅を盗む画からも、梅の香りに乗ってその者らの話し声が聞こえて来るようである。臥龍梅の前で火を借りる娘の、煙管(キセル)を吸う口元からも果敢(はか)ない音は聞こえて来る。春信の代表作である、黒頭巾に黒い着物姿の男と白頭巾に白い着物姿の女が、双方の片手で一本の傘の柄を握る「雪中相合傘」からは、後ろの柳の枝や傘の上に降る雪の音や、傘の中に籠る男女の息遣いが聞こえて来る。「夕立」では、上空の雲から直接吹きつけている風雨の中、洗い物を取り込もうと竿を握り飛び出て来た娘の片方の下駄が後ろに脱げ、激しい雨音の中にその脱げた下駄の音が響いている。「六玉川(むたまがわ)、井出の玉川」は、若い娘が裸足の二人の侍女にそれぞれ片手と手繰(たぐ)った振袖を取ってもらいながら駒下駄を履いたまま川を渡っていて、浅い水の流れの音がしている。「風俗四季哥仙、五月雨」では、手に手拭を持ち、肩にも手拭を掛けた風呂屋帰りの相合傘の二人の女の内のひとりがすれ違いざま、傘を窄(すぼ)めている同じように肩に手拭を掛けた少女に何か話し掛けている。「風俗四季哥仙、十二月」では、家の庭で雪で作った犬の目を筆で赤く塗っている幼い弟を傍らでその姉が口に手を当てながら笑い、その二人の様子を窓の内から厚着をした母親が見ていて、「座鋪(ざしき)八景、台子(だいす)の夜雨」では、湧く茶釜の前で居眠りをしている母親の後ろから、細長い紙切れを垂らした簪(かんざし)を髪に差そうと悪戯をしている弟の後ろで姉が微笑み、「五常、智」では、習字の筆を持つ末の妹の手を後ろから姉が握って教え、姉妹の中の娘が机の横に座ってその筆先をじっと見つめていて、これらの画からは家族の囁き、笑い声、賑やかな話し声が聞こえて来る。「三十六哥仙、三條院女蔵人左近」では、寺の外階段の上に座り着物の中で足を組んで文を読む娘を、立ったまま後ろから若い男がその様子を見つめ、「井筒の男女(見立筒井筒)」では、風に揺れる柳の下の釣瓶のない井筒に少年が頬杖をつきながらその中を指さし、その前に立つ振袖の少女が片手を縁に置いてその中を覗き込んでいて、「三味線を弾く男女」では、川の袂に置いた縁台に若い男女が凭(もた)れ合うように腰を下ろし、女が撥(ばち)を持ち、男が三味線の竿の弦を押さえている。この三枚の画からは、若い男女の青臭い、あるいは濃厚な息遣いが旋律として鳴っている。あるいは「風俗四季哥仙、仲秋」では、萩の咲く小川の岸辺に置いた縁台に腰を下ろして月を眺める娘が持つ団扇の扇ぐ音があり、その横でもう一人の娘が片肘をついて寝そべり、香を焚いていて、「見立三夕(さんせき)、西行法師、鴫(しぎ)立つ沢」では、読み飽きた『徒然草』を足元に投げ出し、開けた窓に肘をついて外を眺める娘の耳に、空を渡る鴫の声が響いている。「縁先美人図」では、障子戸の内で芸者が三味線を弾き、太鼓を叩く宴のさ中をそっと抜け出した遊女が、縁先で山吹の花が撓(しな)垂れかかる手水鉢を思いに耽るように見つめていて、この遊女が聞いているドンチャン騒ぎは画を見る側の耳にも聞こえている。この画には、「無間の鐘」という故事を織り込んだ歌舞伎「ひらがな盛衰記」が元(もとい)にあり、その故事によれば、鐘を突けば現世では財宝が手に入るが、来世では無間地獄に落ちるというもので、歌舞伎「ひらがな盛衰記」とは、その相手に父の恩を返すため源平合戦で先陣争いに負けた梶原家の惣領息子源太が勘当され、源太を養うため廓(くるわ)に身を沈めた愛人千鳥が、会いに来る源太の揚げ代を工面するため源太が母親から手渡されていた産衣(うぶぎぬ)の鎧を質に入れて仕舞う。が折りしも一の谷で合戦が起こると、源太はそうと知らずに遊女千鳥の元に鎧を取りに来る。善かれと思ってやったことで追い詰められた千鳥は、小夜の中山の無間の鐘の故事を思い出し、手水鉢を鐘に見立て柄杓で打とうすると、客に化けて二階にいた源太の母親が、鎧の質受けに必要な三百両を千鳥の頭上から雨のように降らせる話であり、この画に描かれている山吹の花は、遊女がこの話を思い浮かべている三百両の見立てであるという。荷風の云う果敢(はか)ないメロデーはこの「縁先美人図」では、地獄に落ちてもかまわぬ思いで手水鉢を叩こうとして金を得た物語の女を思い浮かべている遊女の心の内で鳴っている。あるいは荷風の云う「日常秋雨の夜に聞く虫の音、木枯らしの夕に聞く落葉の声、または女の裾の絹摺れする響等」は、身近な物音であり、画に現れる大方の人物も身近にいる若い男女、遊女、子どもと家族であり、その恋愛や愛情にうつろう心の様(さま)を写す顔つきやその指先や裾から出る素足の指の動きもまた果敢(はか)ないメロデーであり、春信の描くその果敢(はか)なさに見る者は懐かしさを覚え、懐かしさを催した心はそのどれもが身近であるが故に果敢(はか)ないと思うのであり、それが春信の眼差しでもあると思えば、見る者の心はこの江戸の絵師とひと筋で繋(つな)がることになる。が、面白可笑しい春画も描いた春信の眼差しは、この果敢(はか)なさだけに留(とど)まってはいない。「見立芦葉達磨(ろようだるま)」という画がある。川の流れに浮かぶ芦の一茎の上に、頭に紅い被衣(かづき)を被った紅い麻の葉の柄の着物姿の女が素足で、風を受けながら立っている。背景はその川面と右奥の芦の生えた岸と、薄鼠色につぶした空である。菩提達磨は天竺から中国梁の武帝に迎えられ、仏教の功徳を問われると、「何も無い」と応え、その定義も無であり、何者かと問われた己(おの)れ自身もまた「不識」と応え、理解の及ばない武帝の元を離れ、揚子江を北上して洛陽北魏に入り、崇山少林寺で面壁九年の坐禅を通したとされ、その揚子江を渡る時に用いたのが芦葉であるといい、春信の画はこの話を元(もとい)にしている。「見立芦葉達磨」の女は涼し気に微かに笑みを浮かべているようにも見え、達磨の面壁九年を超す遊女の「苦界十年」を経た元遊女は、赤ん坊の産衣と同じ麻の葉の柄の着物を身に着け、自由の身となって再びこの世に己(おの)れを晒したのであり、それが「見立芦葉達磨」の意味するところであり、身近の果敢(はか)なさから跳躍した絵師春信の到着地である。東山大豊神社(おおとよじんじゃ)の本殿に、樹齢二百五十年といわれている枝垂れ紅梅がある。その太からぬ幹もどの枝も屈曲を繰り返しながら天の高みを求めつつ、枝先の最後の細枝を悉(ことごと)く垂らして花をつけるその姿には、大木にはないただならぬ気配がある。いまより二百五十年前は明和年間(1764~1772)に当たる。鈴木春信が錦絵を花開かせた時である。

 「浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔(まこと)に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪(さ)めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々(かくかく)たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹(あんたn)たる行燈(あんどん)の火影(ほかげ)を見るの思ひあり。油画の色には強き意味あり主張ありて能(よ)く制作者の精神を示せり。これに反して、もし木板摺の眠気(ねむげ)なる色彩中に製作者の精神ありとせば、そは全く専制時代の萎微(いび)したる人心(じんしん)の反映のみ。余はかかる暗黒時代の恐怖と悲哀と疲労とを暗示せらるる点において、あたかも娼婦が啜(すす)り泣きする忍び音を聞く如き、この裏悲しく頼りなき色調を忘るる事能(あた)はざるなり。余は現代の社会に接触して、常に強者の横暴を極むる事を見て義憤する時、翻(ひるがえ)つてこの頼りなき色彩の美を思ひその中(うち)に潜める哀訴の旋律(メロデー)によりて、暗黒なる過去を再現せしむれば、忽(たちま)ち東洋固有の専制的精神の何たるかを知ると共に、深く正義を云々するの愚なることを悟らずんばあらず。希臘(ギリシヤ)の美術はアポロンを神となしたる国土に発生し、浮世絵は虫けら同然なる町人の手によりて、日当り悪しき横町の借家に制作せられぬ。今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度(ひとたび)合理の眼(まなこ)を以てその外皮を看破(かんぱ)せば武断政治の精神は毫(ごう)百年以前と異ることなし。江戸木板画の悲しき色彩が、全く時間の懸隔(けんかく)なく深くわが胸底(きょうてい)に浸み入りて常に親密なる囁きを伝ふる所以(ゆえん)けだし偶然にあらざるべし。余は何が故か近来主張を有する強き西洋の芸術に対しては、宛(さなが)ら山嶽(さんがく)を望むが如く唯茫然としてこれを仰ぎ見るの傾きあるに反し、一度(ひとたび)その眼(め)を転じて、個性に乏しく単調にして疲労せる江戸の文学美術に対すれば、忽(たちま)ち精神的並(ならび)に肉体的に麻痺の慰安を感ぜざるを得ず。」(「浮世絵の鑑賞」永井荷風『江戸芸術論』岩波文庫2000年)

 「大熊の2地区、4月10日「避難解除」 町と県、政府が合意」(平成31年3月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)