その日の最高気温が京都市の九月の記録を更新する三十六度であれば、三十分余り自転車を漕いだだけでズボンの尻から股の内に汗の染みが出来ている。汗は尻にだけかいているわけではない。下着もシャツも汗で湿ったままいつまでも乾かない。東大路通に立つ知恩院新門から知恩院道の緩い上りは始まっていて、北から来てここで果てる神宮道と交わり、この正面に見えるのが知恩院の黒々とした大三門である。自転車を裏道の際に駐め、染みた尻を支える二本の足を前に動かし、華頂山知恩院の三門前の二十数段の石段を上る。『京都・山城寺院神社大事典』(平凡社1997年刊)は大人が両腕を伸ばしても抱えきれぬ太さの柱に支えられているこの三門を、「五間三戸二階二重門、楼上に霊元天皇筆と伝える「華頂山」の額を掲げた壮大な楼門である。」と記している。「五間三戸」とは、六本の柱が作る五つの間の中四本の柱の間に三つの扉があるということである。この「壮大」な三門を梅原猛はこう書いている。「知恩院に来てまず目につくのは巨大な三門だろう。だいたい三門は禅宗の寺院には必ずあるが、浄土宗の寺院には珍しい。しかもこの知恩院の三門の巨大さはべらぼうで、その高さは二十四メートルもある。三門といえば、南禅寺および東福寺が有名であるが、その山門の高さは共に二十二メートルであり、知恩院の三門より二メートル低い。」(『京都発見・五・法然と障壁画』新潮社2003年刊)あるいは中村直勝は『カラー京都の魅力・洛東』(淡交社1971年刊)で、「知恩院の三門は、新門通りの広い馬場の正面に高い石段をもって高台を造築し、その上に建っておる。三間三面。入母屋造、本瓦葺、両袖に山楼をつける。元和五年(1619)徳川秀忠の寄進するところである。━━どうしてこのような偉大なる三門を必要とするのか。その疑問は、門を通って本堂に登る石段を注意すれば、諒解の糸の一筋を掴むことが出来よう。即ち勾配が非常に急なので、不用意に登ると途中で喘(あえ)がねばならない。足許をしっかり見て登らないと、段を踏み外す惧(おそ)れがある。上を向いて歩くということはとても出来ない。とすれば、この石段の上に一兵を置いて、弓一梃に矢を番えたならば、もう石段は制圧されて、登ることは許されない。つまり知恩院は幕府が狙った要塞であり城郭である。三門の度外れて高いのは、望楼にたるの役目を果さしめたものである。」と書き、あるいは竹村俊則の『昭和京都名所圖会』にはこう記されている。「三門は五間三戸、重層、入母屋造り、本瓦葺、元和五年(1619)徳川二代将軍秀忠によって建立されたわが国最大の楼門で、楼上に霊元天皇宸筆の「華頂山」の額を掲げる。上層内部は宝冠釈迦如来や十六羅漢像を安置し、鏡天井や柱等には極彩色の雲竜や天女を描いている。この門の特長は左右に山廊を備えた唐様建築にある。三門は元来禅宗伽藍の表大門であるが、浄土宗のものは珍しく、徳川家の権勢をしめすため、もっとも雄大にみえる唐様を採用したものであろう。一説に大工棟梁五味金右衛門が小規模にとの内命にもかかわらず大規模に建てたため、その責任を負わされ、竣工後五味夫妻は自害したという。今も三門の中二階には同夫妻の本像を入れた棺があり、知恩院の七不思議の一つになっている。」あるいは山折哲雄監修、槇野修著の『京都の寺社505を歩く・上』にはこう書かれている。「三門の楼上には、徳川秀忠から三門の建築を命じられた大工夫婦の「白木の棺」がある。これは大工五味金右衛門が三門の完成前に夫婦の本像をおさめたもので、その理由はふたつあって、ひとつは建築予算を超えたときには自刃するつもりでいたが、名人気質の五味は後世に誇るものを建てようとしてやはり超過してしまい、夫婦で果てる。もうひとつの理由はこの三門は御所の見張りを兼ねていたため、どこかに建築上の秘密があり、完成したときには殺されるだろうと思っていた五味夫婦の覚悟をあらわしたものだともいわれている。」この三門の「壮大」さの表現からその「事情」は関わった大工夫婦の自害に至るが、その真偽の不明さが七不思議なのであろう。北野天満宮に近い千本釈迦堂とも呼ばれる大報恩時には、大工の妻阿亀(おかめ)が自害した話が伝わっている。棟梁の長井飛騨守高次が本堂の上棟式目前に尼崎の信者からの寄進という四天柱の一本を誤って一尺短く切り落としてしまい、その代りが見つからず悩んでいた。阿亀は十字の組み木を上に組んで支える「斗栱(ときょう、ますぐみ)」という技法を思い起こして夫に伝える。それを聞いた高次は残りの三本を短い柱に合わせて切り揃え、斗組をその上に載せ長さを補った。が、阿亀は己(おの)れの助言で事なきを得たことが他に知られたならば夫の面目が潰れると考え、上棟式の前日に自害してしまう。高次は阿亀の面を御幣に飾り、その冥福と落成の無事を祈ったというのである。これもなにやら不可思議な口に渋みが残る話である。西に向いた三門を潜り抜け尻に汗の染みたズボンの足でやや急な石段を数十段上れば、南が正面の国宝御影堂は白砂利の奥にある。数字で表せば、御影堂の正面間口が四十五メートル、奥行三十五メートル、高さ二十八メートルあり、須弥壇の板敷を除いた畳六百七十三枚が堂内に敷かれている。金色の柱も天井からの飾りも荘厳である。が、幅三メートルの外縁の節や木目の浮いた板の感触やそちこちにある楕円や矩形にくり抜いて傷んだ箇所を繕い埋めた跡の方が目に残る。阿弥陀堂に渡る髙廊下に出ると、「ここに来て」はじめて涼しい風が通って行き、思わず足を止める。その風に御影堂で行われている檀家の法要の経を読む声が混じる。阿弥陀堂の中では、金色の阿弥陀像の前に座った背中の曲がった老婆が口を開けた信玄袋に入れた手で何かを頻りに探している。いま中にいるのはこの老婆ひとりであり、老婆が信玄袋から戻した手には何もない。それでも老婆は信玄袋の口を窄めて傍らに置き、手前にあった小さな木魚を引き寄せ叩きながら口元で経を唱えはじめる。廊下を戻り、御影堂の裏から集会堂(しゅうえどう)へ髙廊下を渡り、隣りに建つ大方丈までの廊下は鶯張りのその「音」を立てる。大方丈の外れでこれより先の拝観の受付を済ませ、脱いで袋に入れてぶら下げていた靴を玄関の三和土に下ろして履き、庭に出る。庭はなだらかな築山くずれを奥に手前に池があり、縁に沿って苔が生え白砂に筋目が入り、石や岩が立ち、菩薩が乗って降り来る雲を模したという躑躅の植え込みなどがあるが、方丈の縁に立ち入らせなければ暑い日向に立ってもいられず、軒下を歩むのみで庭を過ぎ、順路の奥にある権現堂の内に飾ってある徳川家康、秀忠、家光の肖像画を戸の桟の間から覗き見て方丈まで引き返し、池に架かる石橋を渡って山裾の鬱蒼とした石段を上り、門を潜り竹を編んだ垣の間を抜けると山亭という名の簡素で小さな平屋の建物の前の白砂に島のように木を植え飛び石を置いた庭に出る。栞に「京の町並みが一望できる」とある通り、三門の前から上って来た石段の積み重なりの高さがここに来て目の当たりとなる。この建物は、三門の額の「華頂山」の筆を執った第百十二代霊元天皇の第十三皇女吉子内親王の住まいを移したものであるという。吉子内親王は二歳で第七代将軍徳川家継と婚約したものの、翌年その家継が七歳で亡くなり、結婚は成らず十九歳で落飾して浄琳院宮となり、四十五歳で世を去っている。山亭は将来を失った孤独な天皇の娘がひとり籠ったまことに質素な建物である。内から山亭の障子戸を開ければ、山に囲まれた「京の町並みが一望」出来る、が、これは浄琳院宮が見た景色ではない。見ることが「叶わなかった」景色である。山亭の裏に回り塀の板戸を開けて抜け出ると、勢至堂の裏の豊臣秀頼の正室千姫の骨や浄琳院宮が眠る墓地に出る。勢至堂の「勢至」は法然の幼名「勢至丸」の「勢至」である。念仏を唱えるだけで「救われる」専修念仏が延暦寺、興福寺の権威主義を揺るがして批難迫害を受けるさ中、後鳥羽上皇の熊野行幸中に弟子の住蓮と安楽が宮中の女官を出家させたことに後鳥羽上皇の怒りを買い、讃岐に流される承元の法難(1207年)から京に戻ることを許された翌年の建暦二年(1212)、七十八歳の法然は勢至堂の建つこの地にあった禅房で命尽き果てる。それから四百年後の慶長八年(1603)浄土宗徒だった徳川家康は知恩院を京の菩提所と定め、第百七代後陽成天皇の第八皇子良純法親王を入山させ、宮門跡とした。知恩院は寛永十年(1633)の出火で焼け失せ、第三代家光により復興されたのが、いま目の前の御影堂であり三門である。三門の棟梁五味金右衛門は自害するほど三門の出来に満足していたのではないか、とふと考える。そうであれば自害の前に自らこの門に火を放つようなことは思いもよらぬことであったであろう。土産物店でアイスキャンディを買い、道路を挟んで三門を見上げながら頬張っていると、傍らの築地の内から四十ほどのサングラスをかけた生地の薄い夏服を着た金髪の女がこちらの前にやって来て三門を振り仰ぎ、一分ほどそうしてからまた築地の陰に戻って行った。築地の向こうは駐車場になっていて、観光バスがズラリ駐まっている。いまの女はそのどれかの乗客かもしれないと思っていると、また現れ、こちらを一瞥(いちべつ)するとさきほどと同じ場所に立ってまた三門を眺める。今度はさっきよりも長くそうしている。そしてまたこちらを一瞥して築地の陰に戻って行った。知恩院の三門はこの女にバスの出発まで二度足を向けさせた何かである。
「かわせみ。今日の夕方は、魚が一向かからなかった。が、その代り、私は近来稀な興奮を獲物にして帰って来た。私がじっと釣竿を出していると、一羽の翡翠(かわせみ)が来てその上に止った。これくらい派手な鳥はない。それは、大きな青い花が長い竿の先に咲いているようだった。竿は重みでしなった。私は、翡翠に樹と間違えられた。それが大いに得意で、息を殺した。怖がって飛んで行ったのではないことは請合いである。一本の枝から別の枝に飛び移るつもりでいたに違いない。」(『博物誌』ジュール・ルナール 岸田国士訳 新潮文庫1954年)
「大熊町60ヘクタール先行除染へ 帰還住居、3年後の避難解除目指す」(令和5年9月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)