東山南禅寺塔頭金地院(こんちいん)の書院に、長谷川等伯が描いた「猿猴捉月図」という襖絵がある。長く伸ばした片方の腕で樹の枝に摑まり、もう一方の腕を伸ばして一匹の猿が池に映った月を掬おうとしている。この「猿猴捉月図」は、仏典『大蔵経』の「魔訶僧祇律巻第七」から題を取ったものである。「於空閑處有五百獼猴。遊行林中。到一尼倶律樹。樹下有井。井中有月影現。時獼猴主見是月影。語諸伴言。月今日死落在井中。當共出之。莫令世間長夜闇冥。共作議言。云何能。時獼猴主言。我知出法。我捉樹枝。汝捉我尾。展轉相連。乃可出之。時諸獼猴即如主語。展轉相捉。小未至水。連獼猴重。樹弱枝折一切獼猴堕井水中。」人がいまだ踏み入らない原野に五百匹の大猿の群れが棲んでいた。ある日この猿の群れが林を巡っていて、尼俱律(にくり)という樹が一本生えているところにやって来た。その樹の下には井戸があって、水の面に月が浮かんでいた。この月を見て驚いた群れの先導者が皆にこう云った。「月が井戸に落ちて溺れて死にかかっている。われわれはこれを救い出さなければならない。真っ暗闇の夜がこのまま続いてしまうことになってはだめだ。」これを聞いて群れの者どもはああだこうだと話し合ったが、うまい方法が浮かばず、先導者にどうすればいいのか訊くと、「こうすればいいんだ。まずおれが樹の枝にぶら下がる。それからお前らのひとりがおれの尻尾を掴んでぶら下がる。これを続けてゆくんだ。そうすれば月を救い出すことが出来る。」猿たちは早速先導者の云う通り、次々に相手の尻尾を掴んでぶら下がってゆく。が、もうすぐ水面に触れるすれすれまで来たところで、連なった猿の重みに耐えかねた枝がボキッと折れ、猿の群れは一匹残らず井戸の中に堕ちてしまった。この原文には続きがあり、愚か者には愚か者が従ってしまう、迷う者が迷う者を救うことは出来ない、と述べている。猿のこの場面だけを見れば、実体のないものを掴み損ねて溺れてしまった、ということである。身の程を知らぬ者が冷静な判断をせずに大失敗をしてしまう、という教えであるともされている。笊で水に映った月を掬うことは出来ない。が、水ごと両手で掬うことは出来る。が、その月は本当の月ではない。車谷長吉の『贋世捨人』にこのような一節がある。「それから谷内氏は、次ぎのような話をした。ある日の午後、谷内氏が勤務する精神医学研究所の廊下を歩いていると、研究所内の風呂場の戸が開いていた。中を覗くと、服を着た一人の男の患者が、汲出し桶の尻に坐り、水のはってある浴槽の上に釣竿を垂れている。かねて谷内氏とは顔見知りの男である。氏は「どうだ、釣れるか。」と声を掛けた。が、男は振り向きもしない。釣糸を垂れた風呂桶の中を一心に見詰めている。谷内氏はそのまま廊下を通り過ぎた。所用をすませて、ふたたびもとの廊下を通過する時、風呂場を覗くと、男は先程とまったく同じ姿勢で、浴槽に釣竿を差し伸べている。氏はまた、「どうだ、その後、何か釣れたか。」と声を掛けた。すると、男は矢庭にこちらを振り向き、「馬鹿ッ、風呂桶で魚が釣れると思っているのかッ。」と呶鳴った。血走った、凄まじい目だった。谷内氏は、はッとした。頭の先から足の先まで、電気が走り抜けたような衝撃を受けた。」溺れている月を救おうとした猿が愚かであれば、釣れるはずのないことを知って浴槽に釣糸を垂らす人間は何であろうか。金地院は、以心崇伝の寺である。以心崇伝は、長く徳川家康に仕え名を残している。「伴天連追放之文」、禁中並公家諸法度武家諸法度、寺院法度を書いたのが以心崇伝である。徳川幕府は、朝廷も武家も寺も取り締まりの対象にしたことで二百六十余年続いたのである。小堀遠州が作った、名庭といわれている大方丈南面の二千坪の鶴亀の庭の、白砂に浮かぶ石を組んだ鶴島と亀島の間に長さ十二尺幅六尺の平たい石が据えられている。これは拝石と呼ばれ、ここに立って境内の南西の木の茂る傾斜の先の東照宮を拝むための石である。東照宮に祀られているのは徳川家康である。以心崇伝は家康のため、公家からも寺からも様々な書物を搔き集め、それを書き写させたという。万が一にも、家康に井戸の中の月を救うような気を起こさせないために。界隈という言葉の意味を狭く使えば、曲れば蹴上に抜ける緩やかな上り道の向かいに、南禅寺山を背にした南陽院の白築地が続く金地院の門前の界隈は、どこかで見かけたような思いのする景色でありながら、恐らくはここにしかない典型的な昔の風が通う界隈である。この昔とは、江戸からはじまる昔のことである。

 「数学の世界で第二次大戦の五、六年前から出てきた傾向は「抽象化」で、内容の細かい点は抜く代わりに一般性を持ったのが喜ばれた。それは戦後さらに著しくなっている。風景でいえば冬の野の感じで、からっとしており、雪も降り風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない。そこで私は一つ季節を回してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思い立った。その一つとしてフランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげたみたが、あのころわからなかったことがよくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開けるということだろうと思う。」(『春宵十話』岡潔 毎日新聞社1963年)

 「国と東電に10億円賠償命令 (浪江町)津島住民訴訟、原状回復は退ける」(令和3年7月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)