自由律俳句と称する句がある。五七五の定まった型を持たず、季題としての季語を使わない。その定型を持ち、季語を必ず句に含めるのが俳句であり、その俳句は発句(ほっく)として俳諧連歌から独立したものである。江戸の頃、五七五七七の和歌を複数の者で詠む遊びがはじまって流行った。はじめの五七五の発句に次の者が七七の脇句をつけ、その座にいる別の者が次の上句五七五を詠む。俳諧であるから滑稽戯れであり、その時々の季節の語を詠み込み、教養をもって座の「主人」を誉めたりもする。発句はこのような遊びの場から生まれ、俳句と名を変え、自由律俳句はその名の通り、決まり事から「自由」であろうとした。たとえば河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は「正月の日記どうしても五行で足るのであつて」と詠み、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は「湯呑久しくこはさずに持ち四十となる」と詠み、種田山頭火は「どうしようもない私が歩いている」あるいは「まつすぐな道でさみしい」と詠み、尾崎放哉は「いれものがない両手でうける」と詠んだ。確かにこれらの俳句は、俳句形式から「自由」に見える。では芭蕉、一茶、蕪村は果たして不「自由」であったのか。「自由は多くの意味をもつ概念であるが、一般的には何かをするのに障害・拘束・強制等の妨害的条件がないことをいう。自由は<…からの自由>である。これに対し<…する自由>はその何か(例えば結婚)を明示し、それに対する妨害的条件がないことをさす。<…からの自由>と<…する自由>は不可分の両面をなしている。行為の目的と条件によって自由は多様な意味をもつ。それらを明示しないかぎり、自由という概念は空虚である。」(『岩波哲学小辞典』岩波書店1979年刊)人は「身体」という自分で作り決めたものでない肉体から出られず、生きてゆくにはそこに家族を含めた「社会」があり、「社会生活」には様々な規律法律がある。が、その中にあって人は頭の中で「自由」にものを考える。その考えそのものを外から絞めつける「国」が世には存在するが、この先それぞれのその頭の中を強制的に支配する「メカニカル」が現れないとも限らないが、脳機能が患わない限り頭の中でものを思い考えることは「自由」である。大学の初歩的哲学の授業で「自由」には三つの段階があると習ったことがある。一つ目は何々からの自由、次は何々の中での自由、最後は自由自在である。とにかくこの場からこの事々から逃れたい。しかしついて回る物事からどうやっても逃れられないのであれば、その中でやってゆくしかない。そしてそうしていくうちに、ついにはその回りの事々も自分自身についてもそれを「(差し)障り」と思わず、何の「(差し)障り」でもなくなる。映画『PERFECT DAYS』の便所掃除夫の役所広司は「自由」のどの辺りにいたのだろうか、と日が経って思う。昨年、左京正往寺町の大蓮寺の臘梅(ろうばい)を見に行った時にはすでに花が終わっていて、それではと昨日見に行けば、寺は何々寿々子という名を世に受けた者の葬式のさ中であった。臘梅の花にある日のありとのみ 長谷川素逝。

 「頭のうしろには、貧弱な部屋の平凡な壁などは描かずに、無限を描くのだ、僕の作れるかぎり最も強烈で豊かな青の単純な背景にする、こうした単純な組合せによって、豊かな青の背景の上に浮き出したブロンドの頭は、深い紺碧の空に光る星のように、神秘的な効果をあげることになる。」(『ゴッホの手紙』フィンセント・ファン・ゴッホ 硲伊之助訳 岩波文庫1961年)

 「除染土「日本全体の課題」 環境省福島県外最終処分など協議」(令和6年1月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大蓮寺のある仁王門通から大豊神社、真如堂まで。