木洩れ日の素顔にあたり秋袷 桂信子。この句の季語は秋袷で、恐らくは夏の薄地から袷(あわせ)に着るものを替えたばかりの様子であろう。「素顔」の語には、「秋袷心すなほに生きのびて 池内たけし」や「つつましや秋の袷の膝頭 前田普羅」などの句も思い起こさせるが、公開中のヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』の中で公衆便所の掃除夫を演じる役所広司が何度も「木洩れ日」を見上げる。映画の前半は、掃除夫役所広司の一日の生活を淡々と丁寧に写してゆく。舗装道路を竹箒で掃く音で掃除夫平山に扮する役所広司は目が覚め、起きるとすぐに布団を六畳ほどの畳部屋の隅に畳み、階段を降りた流しで歯を磨き、髭を剃り、ツナギに着替え、アパートを出て空を仰げば近くに東京スカイツリーが見え、敷地にある自動販売機で缶コーヒーを買って一口飲み、駐めてあるライトバンに乗り込み、カセットテープをカーステレオに差し込み、車を出す。音楽が鳴り出し、車は首都高速に入り、渋谷にある便所にはとても見えぬ外観の便所の清掃を始める。便所の清掃はそう複雑ではない。床や窓枠や便器の隅のゴミを拾って床を水拭きし、紙を補充し、洗面台便器鏡出入り口扉の汚れを拭うだけである。その間に利用者が入って来ればただちに作業を止め、外に出て役所広司は空を見上げて待つ。そうしている限り利用者との間に問題は起きない。利用者同士で問題が起きることもあろうが、あるいは犯罪めいたこともあるには違いないがいまは起きない。若い同僚がひとりいるが、熱心さに欠け、女とつき合うための金を役所広司にせびったりする。が、この者ともさしたる揉め事も起きない。昼飯は小さな神社の境内のベンチでコンビニエンスストアで買ったサンドイッチですませる。食べる前に役所広司は必ず木洩れ日を見上げ安いフィルムカメラで写す。仕事を終えると自転車を漕いで隅田川に架かる桜橋を渡り、銭湯の一番風呂に入る。六十を過ぎた裸の役所広司は窓から湯気の中に差し込む光を見上げる。それから浅草駅地下道の呑み屋でテレビの野球中継を見ながら焼酎を飲み、部屋に戻り、寢床の枕元の明かりで本を読み、うとうとしてくればそのまま眠る。この直後からしばしの間画面のトーンが一変する。夢の入口であるのかモノクロの木洩れ日のきらめきのような、何かの影が背後でちらつき揺れながら不安げに歪んで流れていく。そしてまた竹箒の音で目覚め、一日が始まる。週に一日ぐらいであろうか、役所広司に思いを寄せる仕草の石川さゆり扮する女将のいる居酒屋に通い、古本屋で安い本を一冊買う。どこにいてもほとんど自分から口をきくことはなく、話しかけられれば愛想笑いを返すだけである。それを趣味といえばいえるのかもしれぬが、部屋の窓際に並べた小さな鉢植えに毎朝霧吹きで水をやり、留守の間も紫外光線のような明かりで照らしている。神社の楓の根元から掘ってきた実生の苗もそこにある。映画の前半の六十分はこのような「事」の起きない掃除夫役所広司の日常が撮られているばかりであるが、ある日仕事から戻ると、アパートの表に女子高校生がいる。何年も会っていなかった姪、自分の妹の娘である。姪が目の前に現れた事情は描かず、姪はアパートに泊まったようで、いつもの朝のことごとを始めると姪は部屋の床の中で目覚めて気づき、一緒に仕事に連れていけと云う。はじめは伯父役所広司の仕事振りを便所の外で見ていた姪は、翌日には同じツナギを着て手伝うようになり、二人で仕事を終えてアパートに帰ってくると一台の黒塗りの車が駐まっている。役所広司の妹が娘を迎えに来たのだ。車の中には「おつき」の運転手がいる。そのような暮らし振りを思わせる妹は兄が好きだったという好物の土産を渡し、「もうそうでもないから」入院している父に会ってやってほしい、と、でも云う通りにはしないでしょうねという思いの籠った半ば諦めの口振りで云う。役所広司ははにかむような笑いを浮かべるばかりで返事はしない。が、妹を抱きしめると悲しみとも申し訳なさとも違う苦悶の表情をする。さしたる悶着もなく伯父である役所広司の言葉に従って姪は運転手がドアを開けた車に乗り込み、車は出て行く。それからこのような出来事も起こる。その日いつもの時間に石川ひとみが女将をしている居酒屋に行くと、支度中と出ていて戸が開かず、向かいのコインランドリーに入って待っていると、石川ひとみ三浦友和扮する中年の男とやって来て、店の中に入って行く。それを見た役所広司が二人の後を追うように外に出て店の戸を開ける。と、二人は抱き合っていた。役所広司は慌てふためいたように自転車でその場から去り、コンビニエンスストアで缶ビールと煙草とライターを買って隅田川に出る。この慌てふためき振りは役所広司が女将に秘かな思いを寄せていたというより、関わり合いになりたくなかったからであろう。が、煙草を吸って他愛無くむせたのは久し振りに吸ったからだけではなさそうだ。夜の川面を見ていると三浦友和がやって来て、さっき店を覗いた人ですねと訊いて役所広司の傍らに寄り、自分は女将の元夫で、再婚していていま癌を患い、元妻に急に会いたくなって会いに来たのだと話す。役所広司は黙って聞いている。三浦友和がこの歳になっても分からないことばかりだと云ってから、不意に影というのは重なると濃くなるものなのかと訊く。役所広司は何も応えない。が、外灯の下に行って三浦友和を呼び寄せ、後ろに立つように云い、二人の影が重なるのを見て濃くなっていると云うが、三浦友和はそうかなと同意はしない。それから二人は影踏みをしてしばしはしゃぐのだ。たぶんその翌朝、役所広司は朝日の上ったばかりの首都高速を走っている。光を浴びて涙を流したその顔は笑っているようでもあり、やや陰って悲し気な顔にも見え、また笑みを湛えた顔に戻り、再び陰が差し、また微笑みに戻って映画は終わる。画面ではルー・リードの「パーフェクト・ディ」が流れている。このような歌詞の歌である。「これ以上ない一日、公園でサンガリアを飲んで、暗くなったらぼくらは家に帰る。これ以上ない一日、動物園で餌をやり、映画も観て、そして家に帰る。これこそまったく理想の一日」映画の後半で、掃除夫役所広司の日常にささやかな波風が立つ。それは妹との再会であり、人となりの一端、たとえば大会社の社長の息子だったといったようなことを役所広司にも思い起こさせることであるが、その後の日常に変わることはない。居酒屋の女将の癌患者の元夫が現れても、それを思い出せば何かしらの気懸りにはなっても、己(おの)れの日常はいままで通り続いていく。ヴィム・ヴェンダースはインタビューで、知り合いの僧から便所掃除の修行の話を聞いたことを思い出したと云う。が、坊主がする便所掃除は自分が使う便所を掃除するのであり、それでもそれを修行といえば修行なのかもしれぬが、便所掃除夫の便所掃除はそれが仕事であり、そのことで金を貰い、その金で生活を成り立たせているのである。であるから便所掃除夫の役所広司は修行僧でも何でもない。自らの意思で、しかも「熱心」に仕事をしているだけである。便所掃除は汚れを落とし「はじめ」の清潔感を「保つ」ためだけにするものであるから「生産性」はない。同じことを来る日も来る日も繰り返すだけである。およそ誰とも口をきかない。これらのことを以って役所広司はこの便所掃除を仕事に選んだのかもしれない。短絡的にいえば「人」と関わり合いにならなくてすむ仕事。が、掃除という単純な仕事になどとても耐えられぬ者もいる。そして人に「見下され」もする仕事である。誰でも出来る仕事として金も最低限の額しか得られない。それでも役所広司扮する平山は、妹から「本当にやっていたんだ」と驚かれても、ずっと仕事としてやってきたのである、日に一度木洩れ日を見上げ、微笑みながら。恐らくは大学を出ているであろう役所広司は、「はじめから」便所掃除夫になりたくてなったのではあるまい。が、便所掃除夫ぐらいにしかなれなくてなっているのでもない。仕事中も仕事以外の時でも、役所広司の顔に不満はない。眠りについた時の映像が胸の内の気懸りとして朝の目覚めた時の顔つきを些(いささ)かのその不安の表情と見て取ることもできるが、寝床を出てからは孤独に堪えている様子でもなく、判で押したような日日に恐らくは腹の底から不満はないように見える。このような生き様をもしかすると「薄っぺらな思いで」羨ましいと目に映る者があるかもしれぬ。が、過去に何事かがあったのだとしてもこれは役所広司扮する平山にとって「禅修行」でも人生を「悟った」のでもなく、便所掃除夫としてのひとりのささやかな「生き方」にすぎない。かつて鎌倉の寺や東京の私立高校の便所掃除を仕事としていた者として、便所掃除夫を演じる役所広司をあたかもドキュメンタリー風に撮ったこの映画をしばし懐かしさをもって観たのである。

 「外へ出ると、街は雨で輝いていた、彼女は古い茶いろのレインコートを着てきてよかったと思った。電車は満員だったので、いちばんうしろにある丸腰かけに、爪さきがやっと床にとどくようなかっこうで、乗客の全部に向いてすわらなければならなかった。心の中でこれからすることをすっかり考えてみた。そしてだれの世話にもならないで、自分のお金をちゃんとふところに持っていることは、どんなにいいかわからない、と思うのだった。」(「土くれ」ジェイムズ・ジョイス 安藤一郎訳『ダブリン市民』新潮文庫1953年)

 「福島第1原発2号機の堆積物除去開始 東京電力、突き崩し確認」(令和6年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨上がりの御池通