北嵯峨四景。

 「嵯峨は王朝貴族遊覧の地である。鎌倉中期、後嵯峨上皇が小倉山の東南、南に大堰川下流桂川)や嵐山を望む地に、亀山殿を造営した。上皇は出家後大覚寺に入り、ついでその子の亀山法皇もここに住いする。一四世紀はじめには、亀山の子後宇多上皇大覚寺に入って院政をおこなったので嵯峨御所と呼ばれ、伽藍や僧房も新営された。以後も、亀山・後宇多両天皇の皇統に属する上皇や皇子が住む。それでこの皇統を大覚寺統(のちの南朝)と称する。明徳三年(1392)、南北朝内乱を終わらせた両朝合体のとき、南朝後亀山天皇は、同寺で北朝持明院統)の後小松天皇に、皇位のしるしである三種の神器を引き渡した。暦応(りゃくおう)二年(1339)、足利尊氏は、無念の思いをいだいて吉野山で亡くなった後醍醐天皇の怨霊を恐れ、その冥福を祈るため、天龍寺を建立しはじめる。そこは天皇に伝えられた亀山殿の跡地だった。造営費用として、尊氏は荘園を、光厳上皇は官職を売ってえた収益を、また幕府は天龍寺造営を名目とする中国(元)向け貿易船(天龍寺船)でえた利益を、それぞれ寄進した。貞和元年(1345)、後醍醐天皇七周忌の年に、落慶法会が営まれた。」(高橋昌明『京都<千年の都>の歴史』岩波新書2014年)

 「「野生トキ」福島県内で初確認 南相馬、草地に餌を求め飛来か」(令和6年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)