たとえばある時、経験のない自然の大異変が起こり、口に入れる食い物の量が半分に減る。この土地に住む二つの部族はどうするか。二つの部族はもとは一つの部族から二つに分かれたのであるが、それぞれの人の数に差はなく、どちらにも子どもがいて年寄りがいる。はてさて、どちらの部族のその半分の口に食い物が回らない。一方が力づくで一方の食い物を奪うのか。その時この双方には死人が出るかもしれない。あるいは一方が別の土地を目指してこの土地を離れるかもしれない。あるいは戦いの後、負けた一族が勝った一族の奴隷になるかもしれない。あるいはそうなるのが嫌で残った者すべてが死を選ぶかもしれない。が、勝ったのもつかの間、見たこともない武器を持った部族がこの土地に攻め入って来る。「最大震度7を観測した能登半島地震の被災地では水や電気、燃料などが不足し続けており、避難生活に追い打ちがかかる。半島北部にある石川県輪島市の市役所では5日、米谷起代志さん(83)が2リットルのぺとボトル5本に給水車の水を入れていた。計10キロとなったバッグをかかえ、約1キロ先のアパートに持ち帰るという。「車を持ってないから、水も食べ物も歩いてもらいに行くしかない。何をするにも厳しい。」(「何をするにも厳しい」水も電気も届かず、長引く避難生活に募る不安」朝日新聞DIGITAL2024年1月6日)「珠洲市宝立町鵜飼の宝立小中学校に避難している住民によりますと、この小学校には最大でおよそ700人が避難しています。5日は近所のスーパーマーケットなどからおにぎりやパン、飲料水といった支援物資が届き、全員に行き渡る量になったため住民たちに配布しました。70代の男性は「食べるものが底をつきてきている中でおにぎりをもらうことができてうれしい」と話していました。また、70代の女性は「お米を食べることができてうれしいです。生活は不便ですが、頭が真っ白でこれから先のことを考えることができません」と話しました。別の70代の女性は「気分としてはおなかがすかないが、食べないとフラフラしてしまうので無理やり口にいれています。今はとにかくお風呂に入って頭を洗いたいです」と話していました。」(「石川 珠洲 届いた支援物資  住民たちが分け合いしのぐ状況続く」NHK NEWSWEB2024年1月5日)「大震災は、ぎりぎり一番大切なものを教えてくれる。生きているだけでありがたいとか、絆が大事だとか、たしかにそれは真実だが、究極の真理だけで、私たちは自分をいきいき生きていけないのだと思う。哀しいといえば哀しいが、それが生きているということなのだと思う。」(山田太一 多摩川新聞2012年1月1日掲載『夕暮れの時間に』河出書房新社2015年刊)「能登半島地震、石川県の死者202人に 102人安否不明」(朝日新聞DIGITAL2024年1月9日)死んだ人の口に食い物は入らない。生き残った者の耳に入るのは人の言葉で、人の口から出すのも言葉である。現実的に「いきいき生きて」いくための慾を満たす言葉のなれの果てが、人殺しの武器を手に持つ人の姿である。「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法を証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ)なるあり、休歇(きうけつ)なる悟迹(ごしやく)を長長出ならしむ。」(道元正法眼蔵』第一、現成公案)仏教者としての生き方を学び身につけるとは、己(おの)れを学び覚え身につけるということである。己(おの)れを学び覚え身につけるということは、言い方を変えれば、己(おの)れを忘れることである。己(おの)れを忘れるということを別の言い方で表せば、この世の理(ことわり、すべての存在現象事象の真理)そのものによって、それを考えることではじめて自分という存在が浮かび上がるということを実践証明することである。この世のすべての理(ことわり)そのものによって、それを考えることではじめて自分という存在が浮かび上るということを実践証明するということは、身体と心を持つ自分自身と他者、自分を取り巻くすべての存在という「関係」から積極的に脱け落ち、空っぽになることである。が、この「脱落(とつらく)」を「悟り」と思っても、あるいは思ったとしても、そう思うことはあえて言えば「本物」とは言えぬ「悟り」の一瞬の痕跡でしかなく、すでに痕跡となった「悟り」は仮の「悟り」であるからこの「脱落(とつらく)」を休むことなく永遠に続けなければならないのである。一月やほとけの花のゆきやなぎ 久保田万太郎

 「たしかな計算を立てて、少し耕しかけた用地を安くある人から買って、日傭取(ひようとり)に頼んで開墾に着手し始めた。自分はやはり薬売に遠く出かけていってはいたが、とにかく勇吉は百姓になろうと決心した。それよりほかに自分の出ていく道はないとすら思った。旅から帰ってきて自分の荒蕪地が少しずつでも開墾されていっているのを、見るのは楽しみであった。しかし、半年と経たないうちに、たしかな計算だと堅く信じていた数字が数字どおりになっていかないのを勇吉はだんだん発見した。一年間に規定された荒蕪地を完全に開墾するにはなお多くの金と力とを要した。天然と戦うのについて思いもかけない障碍がたくさんに一方にあるとともに、日傭取(ひようとり)たちは何のかのと言っては怠けて遊んだ。」(「トコヨゴヨミ」田山花袋『日本文学全集7田山花袋集英社1972年)

 「「福島への責任を全う」 デブリ取り出しへ東電社長、年頭訓示」(令和6年1月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都御苑にて。