下駄買うて箪笥の上や年の暮 永井荷風。年のつまった花街祇園の日中も夜さえもその大方が海外からの旅行者でひっきりなしであるが。「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」(『平家物語』巻第一)この祇園精舎を改めてひもとけば、『岩波仏教辞典』(岩波書店1989年刊)にこうある。「古代インドのコーサラ国の都シラーヴァスティーにあった精舎の名。シラーヴァスティーの須達長者が私財を投じて祇陀太子の園林を買い取って、釈尊とその教団のために建てた僧房の名である。祇陀太子の苑林であるから<祇樹><祇園>などと漢訳された。須達長者は貧しい孤独な人々に食を給したので<祇樹給孤独園>とも漢訳されている。釈尊によって多くの説法がこの地でなされた。」この精舎に住まって病に罹ると、その病僧は精舎の内の無常堂に移され、その臨終の時が来れば堂の四隅に吊るした鐘が自ずと鳴って、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(ショギョウムジョウ、ゼショウメッポウ、ショウメツメツイ、ジャクメツイラク この世に出来てあるものすべてが無常である、生れて滅びることが本性であり、生滅するものがなくなり、何もかもが消え失せるように煩悩を超越することが安らぎとなるのだ)」と響いたという。この四句の「偈」は大乗涅槃経にあって「雪山偈」と名づけられている。「雪山偈」の「雪山」は「雪山童子」のことであり、「雪山童子」とは雪山で修行した釈尊の前世の姿である。帝釈天がその雪山で羅刹、食人鬼となって雪山童子を試した。羅刹が「雪山偈」の前の二句を唱える。すでに試されている「雪山童子」はその次の句を聞きたくて、あるいは知るため我が身を捧げる如く進んで羅刹の前に投じる、と、羅刹、帝釈天はその身を中空で抱き止め「雪山童子」の道心一心の鋼(はがね)の誠を知るのである。「諸行無常、是生滅滅法、生滅滅已、寂滅為楽」東山八坂神社の、明治維新神仏分離で境内にあった坊舎が取り壊される以前の名は祇園感神院あるいは祇園社、牛頭(ごづ)天王社といった。祇園町はこの祇園感神院の門前町につけられた名である。その祇園の名を持つ「祇園女御」と呼ばれた女が、白河法皇によって「祇園の辺」に囲われていた。『平家物語』の巻第六に「祇園の女御」の一節がある。「ふるき人(古老)の申されけるは(話すところによれば)、「清盛は、忠盛が子にはあらず。まことは白河の院の御子なり」。そのゆゑは、去んぬる(去る)永久のころ(1113~17、白河院六十一歳から六十五歳)、「祇園の女御」と聞こえて(申し上げて)、さいはひの人(寵愛をうけていたお方)おはしき。くだんの(その)女房の住み給ひける所は、東山のふもと、祇園の辺にてぞありける。白河の院、つねは(いつも)御幸(ごかう、お出掛け)ありけり。あるとき殿上人(昇殿を許された身分の者)一両人、北面(警護)少々召し具して(お供に連れて)、しのびの御幸のありしに、ころは五月二十日あまりの夕空のことなりければ、目ざせども知らぬ闇にてあり(見当もつかぬほどの暗闇で)、五月雨さへかきくもり(降りしきり)、まことに申すばかりなく暗かりけるに、この女房の宿所ちかく御堂あり。この御堂のそばに、大きなる光りもの出で来たる。頭には銀の針をみがきたてたるやうにきらめき、左右の手とおぼしきをさし上げたるが、片手には槌の様なるものを持ち、片手には光るものをぞ持ちたりける。君(白河院)も、臣も、「あな(ああ)、おそろしや。まことの鬼とおぼゆるなり。持ちたるものは、聞こゆる(話に聞く)打出の小槌なるべし。こはいかにせん(いったいどうしたものか)」とさわがせましますところに(ご騒動となっていらっしゃるところに)、忠盛そのころ北面の下﨟(げらう、下級者)にて供奉(ぐぶ、お供)したりけるを、召して(お呼びになり)、「このうちになんぢぞあらん(お前がよいであろう)。あの光りもの、行きむかひて(立ち向かって)、射も殺し(射殺するなり)、切り殺しなんや(切り殺すなりしてはくれまいか)」と仰せければ、かしこまつて承り、行きむかふ。内々(ないない)思ひけるは、「このもの、さしもたけきものとは見えず(それほどこわいものとも思えない)。狐、狸なんどにてぞあらん。これを射もとどめ、切りもとどめたらんは(切り殺したとあっては)、世に(まったく)念なかるべし(命を思いやる心がなさすぎる)。生捕にせん」と思ひて、歩み寄る。とばかりあつてはざつとは光り(しばらく間をいてはさっと光り)、とばかりあつてはざつとは光り、二三度したるを、忠盛走り寄りて、むずと組む(後ろから組み伏せる)。組まれてこのもの、「いかに(何をする)」とさわぐ。変化のもの(ばけもの)にてはなかりけり、はや(もともと)、人にてぞありける。そのとき上下手々(じやうげてで)に火をともし、御覧あるに、齢(よはひ)六十ばかりの法師なり。たとへば(ようは)御堂の承仕法師(雑用をこなす下級僧)にてありけるが、「御あかし参らせん(お燈明をつけよう)」とて、手瓶といふものに油を入れて持ち、片手には土器(かはらけ)に火をいれてぞ持ちたりける。「雨は降る、濡れじ(雨に濡れるのはかなわない)」と、頭には小麦のわらをひき結びかつぎたり(麦わらを笠がわりに結んで被っていた)。土器の火に、小麦わらがかがやきて銀の針の様には見えけるなり。事の体(てい)いちいちにあらはれぬ(事態のそれぞれが分かった)。君(白河院)御感(ぎよかん)なのめならず(ご感服ひとしおで)、「これを射も殺し、切りも殺したらんには、いかに念なからんに(心ないことであったことであろう)、忠盛がふるまひこそ思慮ふかけれ。弓矢とる身は、かへすがへすもやさしかりけり(なるほどいかにも感心であることだ)」とて、その勧賞(くわんしやう、功労を讃える贈物)に、さしも(あれほども)御最愛と聞こへし(ご寵愛と評判の)祇園の女御を、忠盛にこそ賜はりけれ。されば(それで)、この女房、院の御子をはらみたてまつりしかば(みごもっていたので)、「生めらん子(もし生まれた時その子が)、女子ならば朕が子にせん、もし男子ならば忠盛が子にして、弓矢とる身にしたてよ(武士として育てあげよ)」と仰せけるに、すなはち男子を生めり。忠盛言にあらはしては披露せられざりけれども(男子が生まれたことを公表なされなかったけれども)、内々はもてなしけり(男子を大切に扱った)。このことを奏聞せんと(院にお聞かせしようと)、うかがへども(機会をうかがっていたが)、しかるべき(適当な)便宜(ついで)なかりけるが、あるときこの白河の院、熊野へ御幸ありけるに、紀伊の国糸我山といふ所に、御輿かきすゑさせて(おろさせて)、しばらく御休息ありけるに、藪に、ぬかご(むかご、零余子)のいくらもありけるを、忠盛、袖にもり(たくさん)入れて、御前に参り、いもが子ははふほどにこそなりにけれ(芋が子は蔓が地を這うほど稔りました、妹の子、祇園女御の子が這って歩くようになりました)と申されたりければ、法皇やがて(すぐに)御心得ありて(事情を飲み込まれて)、ただもりとりてやしなひにせよ(そのまま(芋を)もりとって養いの糧にせよ、忠盛が育てよ)とぞ仰せ下されける。それよりして(それから後)こそわが子とはもてなしけれ(晴れてわが子として育てたのである)。この若者あまりに夜泣きをし給ひければ、院聞こしめして、一首の歌をあそばいて下されけり(お詠みになって忠盛に下さった)。夜泣きすとただもりたてよ末の代にきよくさかふることのあるべし(その子が夜泣きをしてもひたすら守り育ててくれ、忠盛よ可愛がってくれ、将来清く盛えることもあるだろうから)。さればこそ「清盛」とは名のらせけり(名づけられたのである)。」この「祇園女御」の「址」が『京都坊目誌』(1915年刊)にこう出ている。「祇園町南側の内に属し、蓮華寺址と同所なり。名跡志(『山州名跡志』)に双林寺門前字女御田と云ふ是なり。境界西北ノ隅藪ノ外道ノ側ニ方二間餘鍬を入れさ(ざ)る叢是なりとあり。近世双林寺境内は概ね公園地(円山公園)となり、其西に道路を開通す。其傍西方に今尚ほ一堆の土封(空き地)あり。女御田と稱す。官有地四種なり。木柵を設け、上に松樹を栽う。女御は白河帝の妃なり。姓氏及諱を詳にせず。東鑑(『吾妻鏡』)には源仲宗の妻とす。或は此土封は皇后藤原研子の御火葬所なりと。」それから六十年後の、竹村俊則が書いた『京都伝説の旅』(駸々堂1976年刊)の「白河法皇の寵姫祇園女御の塚」はこのような出だしではじまっている。「円山公園から高台寺に通じる道は京都の観光ルートのなかでも最も名所旧跡の多いところであるから、日曜祭日ともなれば大勢の行楽客の往来でたいへんな賑わいを呈するのは無理もない。この道の途中にある市音楽堂の向い側、道路に面する西側に小さな阿弥陀堂があり、そのうしろにあたって方三間ばかりの空地になっているところに気付かれるだろう。以前は草茫々とした荒地であったが、近年空地を整理して樹を植え、祇園女御塚としるした卒塔婆や標識を建てるなど面目を一新された。」と、竹で囲った細長い石塔の傍らに松が植わり、その手前の叢に駒札の立つ白黒の写真が添えられている。それから四十六年経った十二月末のいま、桜が葉を落とし人影もなく蕭々とした円山公園から「ねねの道」と名づけられた「高台寺に通じる道」は野外音楽堂の手前で東大谷墓地の参道を横切るが、松並木の参道には円山公園より人の姿がある。わずかに上るその石畳の道をなお十歩足らず進めば、一階が石積みを模していてその上が肌色に桃色と灰色を混ぜたような色のつるつるした壁の三階建ての犬小屋のような建物が目に入る。表の扉の横に「京都祇園堂」と記した板看板が下がり、傍らに「祇園女御塚」と彫られた御影石のまだ新しい宝篋印塔が供えの花もなく台座の上に載っている。この場所がかつて白河法皇が忍んで通った「祇園女御」の屋敷があった所とされ、果ては手つかずの空き地の隅の叢に朽ちた阿弥陀堂が建っていた場所である。この日は扉に休館日と出ていて、三階の白壁に切った窓の内に立つ観音菩薩のような仏像を見上げていると、宅配の車がやって来て薄く平べったい箱を手に降りたあんちゃんは扉の貼紙を見、インターフォンを鳴らし、もう一度貼紙を見て千切った不在届け通知の紙をポストに半分挟んで車に戻り、去って行った。恐らくは、平清盛の母であるとも、己(おの)れの妹の生んだ白河法皇の子を養子にとったともいわれている何者とも定かでない「祇園女御」がこの世を去ってからこの場所は、それからずっと「不在」のままの場所であるには違いない。建物の横の真新しい駐車場には一台の車もなく、枯れ葉の一枚も落ちていない薄ら寒さの半分に地上の出来事に何ら関わりをもたぬ日射しが差していた。「ねねの道」にはぶらぶら歩く人の姿があった。高台寺南門通を渡り、一念坂の曲がりから二年坂へ、石段を上って三年坂へ出ればものを頬張り着物姿も混じる身動きもままならぬほどの海外旅行者の人波で溢れ、それはそれで些(いささ)かの年の瀬を思わせたのである。重ね鳴る寺鐘も京の大晦日 桑原まゆ子。

 「甲高い女の声に眼をさました。京都から大きな旅行鞄を手にして乗ってきた数人の外国人が、前の方の席に坐っていたが、左側の窓に一様に眼をむけ、右手の席にいた者たちも、立ってきて窓の外を見つめている。裾野を長くひく富士山が、青空を背景に鮮やかな輪郭をみせている。頂きから五合目あたりまで雪におおわれ、陽光をうけて輝いている。立ってカメラをむけている男の太い腕をおおう産毛のような毛が、金色に光っていた。」(「パラシュート」吉村昭文藝春秋短篇小説館』文藝春秋1991年)

 「原発事故 国の責任否定、東京高裁、東電のみに避難者賠償命令」(令和5年12月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)