『大鏡』は「さいつころ(先だって)雲林院の菩提講にまうでて侍りしかば(聴聞に参った時)、例人(普通の人)よりはこよなう(格段に)年老い、うたてげなる(薄気味悪いような)おきな二人、おうなといきあひて、同じ所に居ぬめり(座が定まった)。「あはれに(まったくもって)同じやうなる者のさまなる」と見侍りしに、これらうち笑ひ見かはして言ふやう、」と、百九十歳の大宅世継と百八十歳の夏山繁樹が嘉祥三年(880)から万寿二年(1025)までの宮廷における藤原家の華々しい歴史を語り交わすのであるが、その舞台となったいまの紫野大徳寺の辺りにあったという雲林院の菩提講には「それなり」の理由があるのであろう。大寺あるいは桜の名所として名の通っていた雲林院は、五十代桓武天皇の第七皇子五十三代淳和天皇の洛北田園地にあった離宮が時経て、桓武天皇の孫僧正遍照が寺としたものであり『源氏物語』にも登場し、菩提講は毎年五月に極楽浄土を求め一切衆生の救済を説く「法華経」を講説・讃嘆する法会であったという。『宇治拾遺物語』にこのような話がある。この菩提講を聴くためひとりの女が雲林院に向かって西大宮大路を歩いていると━━。「この近くのことなるべし。女ありけり。雲林院の菩提講に、大宮を上りに参りけるほどに、西院の辺近くなりて、石橋ありけり。水のほとりを、二十あまり、三十ばかりの女房、中結ひて歩みゆくが、石橋を踏み返して過ぎぬるあとに、踏み返されたる橋の下に、斑なる小蛇(こくちなは)の、きりきりとしてゐたれば、石の下に蛇のありけると見るほどに、この踏み返したる女のしりに立ちて、ゆらゆらとこの蛇のゆけば、しりなる女の見るに、あやしくて、いかに思ひて行くにかあらん、踏み出されたるを、あしと思ひて、それが報答せんと思ふにや、これがせんやう見むとて、しりに立ちて行くに、この女、時々は見返りなどすれども、わが供に、蛇のあるとも知らぬげなり。また、同じやうに行く人あれども、蛇の、女に具して行くを、見つけ言ふ人もなし。ただ、最初見つけつる女の目にのみ見えければ、これがしなさんやう見んと思ひて、この女のしりを離れず歩み行くほどに、雲林院に参りつきぬ。寺の板敷に上りて、この女ゐぬれば、この蛇も上りて、傍にわだかまり伏したれど、これを見つけ騒ぐ人なし。希有のわざかなと、目を放たず見るほどに、講果てぬれば、女、立ち出づるに従ひて、蛇も続きて出でぬ。この女、これがしなさんやう見んとて、しりに立ちて、京ざまに出でぬ。下ざまに行きとまりて家あり、その家に入れば、蛇の具して入りぬ。これぞこれが家なりけると思ふに、昼はする方もなきなめり、夜こそ、とかくすることもあらんずらめ、これが夜の有様を見ばやと思ふに、見るべきやうもなければ、その家に歩み寄りて、「田舎より上る人の、行き泊るべき所も候はぬを、今宵ばかり宿させ給ひなんや」と言へば、この蛇のつきたる女を、家主と思ふに、「ここに宿り給ふ人あり」と言へば、老いたる女出で来て、「誰かのたまふぞ」と言へば、これぞ家主なりけると思ひて、「今宵ばかり、宿借り申すなり」と言ふ。「よく侍りなん。入りておはせ」と言ふ。嬉しと思ひて、入りて見れば、板敷のあるに上りて、この女ゐたり。蛇は、板敷の下(しも)に、柱のもとにわだかまりてあり。目をつけて見れば、この女をまもりあげて、この蛇はゐたり。蛇つきたる女、「殿にあるやうは」など、物語しゐたり。宮仕へする者なりとみる。かかるほどに、日ただ暮れに暮れて、暗くなりぬれば、蛇の有様を見るべきやうもなくて、この家主とおぼゆる女にいふやう、「かく宿させ給へるかはりに、麻(ま)やある、積(う)みて奉らん。火ともし給へ」と言へば、「嬉しくのたまひたり」とて、火ともしつ。麻取り出して、あづけたれば、それを積みつつ見れば、この女臥しぬめり。今や寄らんと見れども、近くは寄らず。この事、やがても告げばやと思へども、告げたらば、わがためもあしくやあらんと思ひて、ものも言はで、しなさんやう見んとて、夜中の過ぐるまでまもりゐたれども、つひに見ゆる方もなきほどに、火消えぬれば、この女も寝ぬ。明けてのち、いかがあらんと思ひて、惑ひ起きて見れば、この女、よきほどに寝起きて、ともかくもなげにて、家主と覚ゆる女に言ふやう、「今宵、夢をこそ見つれ」と言へば、「いかに見給へるぞ」と問へば、「この寝たる枕上に、人のゐると思ひて見れば、腰より上は人にて、下は蛇なる女の、清げなるがゐて言ふやう、『おのれは、人を恨めしと思ひしほどに、かく蛇の身を受けて、石橋の下に、多くの年を過して、わびしと思ひゐたるほどに、昨日、おのれが重しの石を踏み返し給ひしに助けられて、石のその苦をまぬかれて、嬉しと思ひ給へしかば、この人のおはしつかん所を見おき奉りて、よろこびも申さむと思ひて、御供に参りしほどに、菩提講の庭に参り給ひければ、その御供に参りたるによりて、あひがたき法を承りたるによりて、多く罪をさへ滅ぼして、その力にて、人に生れ侍るべき功徳の近くなり侍れば、いよいよよろこびをいただきて、かく参りたるなり。この報(むく)ひには、物よくあらせ奉りて、よき男などあはせ奉るべきなり』と言ふとなん見つる」と語るに、あさましくなりて、この宿りたる女の言ふやう、「まことは、おのれは田舎より上りたるにも侍らず、そこそこに侍る者なり。それが、昨日菩提講に参り侍りし道に、その程に行きあひ給ひたりしかば、しりに立ちて歩みまかりしに、大宮の、その程の川の石橋を、踏み返されたりし下より、斑なりし小蛇の出で来て、御供に参りしを、かくとつげ申さんと思ひしかども、告げ奉りては、わがためもあしきことにてもやあらんずらんと恐ろしくて、え申さざりしなり。まことに、講の庭にも、その蛇侍りしかども、人もえ見つけざりしなり。果てて出で給ひしをり、また具し奉りたりしかば、なりはてんやうゆかしくて、思ひもかけず、今宵ここにて夜を明し侍りつるなり。この夜中過ぐるまでは、この蛇柱のもとに侍りつるが、明けて見侍りつれば、蛇も見え侍らざりしなり。それにあはせて、かかる夢語りをし給へば、あさましく、恐ろしくて、かくあらはし申すなり。今よりは、これをついでにて、何事も申さん」など言ひ語らひて、後はつねに行き通ひつつ、知る人になんなりにける。さて、この女、よにものよくなりて、この頃は、何とは知らず、大殿の下家司(しもけいし)の、いみじく徳あるが妻になりて、よろづ事叶ひてぞありける。尋ねば、隠れあらじかしとぞ。」(「五十七 石橋の下の蛇の事」)これは最近の出来事であるようである。ある女がいた。その女が雲林院の菩提講を聴くため、西大宮大路(いまの御前通)を上がって西院(淳和天皇の後院、御前通四条通が交わる辺りの西)の辺りの川に架かる石橋を渡ろうとした時、川のほとりを二十はとうに過ぎて三十ぐらいに見える着物の裾をちょっと引き上げるように帯を巻いて歩いていた女が足を掛けた石橋の石の一つが踏み返され、やや持ち上がったまま通って行ったのであるが、その後を通ると裏返ったようになった石橋の石の下にまだら模様の小さな蛇がとぐろを巻いていて、はじめの女が「あっ蛇だ蛇がいる」と気づいた。するとその蛇はさっきの女の後をにょろにょろとついて行くではないか。その後ろをついて歩く女は「何を思って蛇は後ろをついて行くのか。踏まれたことで姿がばれてしまったことを恨んで仕返しをしようとしているのか、どうするのか様子を見てやろう」とそのままついて行くと、前を行く女は時々後ろを振り返ったりするのだが、自分の後ろをついて来る蛇には気がついていないように見える。それに、ほかの通行人も誰も蛇が目に入らないのか口に出す者もおらず、はじめに見つけた女にだけ見えているようで、女は「この蛇が何を仕出かすのかこのままついて行って見てやろう」と思い、女の後ろを離れずついて行くと、雲林院にまで来てしまっていたのである。寺の板の間に上がってその女が坐ると、蛇も上がって女の傍らでとぐろを巻いてうずくまっているのに、これを見つけて大騒ぎをする者もいない。「何と不思議なことだ」と思って目を離さず見ていると、やがて講が終わり、女が立ち上がって出て行けば蛇も従うように出て行った。後をつけて来た女はまたも「この先蛇のすることを見届けるのだ」とまた後をつけ、京の町なかに入ってゆき、下京の辺りまで来て、ある一軒家の前で足を止め、女が入ってゆくと蛇もつき従うように入って行った。「ここが女の家なのだ」と思い、「日が高かったから蛇は何もしなかったのだろう。夜になれば何かを仕出かすにちがいない。こうなったらこの蛇の夜の様子も見なければ」と思ったが、このままではそうすることも出来ないので、その家の戸口に立って「私は田舎から上京して来たばかりの者で右も左も分からず今晩どこに泊まったらよいのかもわかりません。一晩だけでもこちらに泊めていただけないでしょうか」と願い出ると、蛇につきまとわれていたその女をてっきり家の主と思っていたのであるが、女は「ここにお泊りしたいという方がおいでですよ」と奥に向かって声をかける。と、年を取った女が出て来て「どなた様でいらっしゃいますか」と訊く。「ではこの老女が主なのだな」と思って、「今晩一晩だけ宿をお借りしたいのですが」と云えば、「よろしゅうございます。どうぞお入り下さい」と云った。その言葉にうきうきして中に入ると、座敷の板の間に上がった女が坐っていて、蛇はその板の間の下の方の柱のそばでとぐろを巻いていて、よく見ると、傍らの女をじっと見上げているではないか。蛇につかれた女は「御殿のご様子は━━」などと老女に話していて、「きっと宮仕えをしている者にちがいない」と思える。そうしている内に、日がたちまち暮れきって家の中が暗くなってしまい、蛇の様子を見るのが難しくなった。それで宿を借りた女は主と思われる老女に「こうしてお泊めいただきましたお返しに、もし麻がおありでございましたら撚(よ)って差し上げます。火を灯して下さい」と申し出ると、老女は「うれしいことをおっしゃって下さる」と云って明かりを灯した。そして麻を取り出して来て渡したので、それを撚りながら気をつけていると、蛇つきの女はいつの間にか寝てしまったようだ。「いまこそ女に近寄っていくのではないか」と思っていたのであるが、蛇は寄っていかない。「この蛇のことをいますぐにでも教えて差し上げたいのに」と思うのだが、「もし教えて差し上げたりして、自分の身に悪いことが起きたらどうしよう」と考えると、口に出せず、しかし「この蛇はこれからどうるすのだろう」と夜中過ぎまでも見守っていたのであるが、灯していた火が消え何も見えなくなったので宿を借りた女も寝入ってしまった。夜が明けて目を覚ました女は「あれからどうなったのか」と思って慌てて起き上がれば、蛇のついた女はぐっすり眠って目が覚めた様子で、何事もなく、主と思われる老女にこんなことを云ったのである。「昨晩夢を見たのですよ」「どんな夢をご覧になられました」と訊くと、「私の寝ている枕元に人の気配がして、見ると腰から上が人間で下が蛇の姿をした清らかな女がいて私にこう云ったのです、「私はある人を恨めしく思ったためにこうして蛇の姿にされ、石橋の下でとても長い年月をつらい思いで過ごしていました。が、昨日、私を押さえつけていた石をあなた様が踏み返してくださったおかげで、その苦しみから逃れることが出来て本当に嬉しく思いました。それでこの人がお着きになる所をお見届けし、お礼を申し上げようと思い後ろからお供いたしましたところ、あなた様が菩提講の席においでなさりましたので、私はあなた様のお供に参ったおかげで人であった時でさえめぐり合うことの出来なかったような仏法をお聞きすることが出来、身に沁みついていた数々の罪が消えてなくなり、その法の力でもう一度人に生れ変わることの出来る功徳も遠からぬこととなりましたので、いよいよ嬉しく思われこのように参った次第でございます。このお礼にあなた様にお幸せを思いのままに差し上げ、良き夫にもお娶(めあわ)せて差し上げましょう」と云うのを見たのです」と語った。話を聞いていた宿を借りた女は肝を冷やすほど驚き、二人の前でこう口を開いたのである。「本当は、私は田舎から上って来た者ではございません。しかじかの所に住んでいる者でございます。実は昨日、菩提講に参ります道すがらあなたにお会いし、後ろをついて歩いておりましたのでございます。西大宮大路のあのところで川に架かる石橋を踏み返した下からまだらの小蛇が現れ、あなたの後ろをついて行きますのを、そうであると教えて差し上げようとも思ったのですが、もし教えて差し上げたりすると私に悪い事が起きるかもしれないと思い、恐ろしくなって申し上げられませんでした。それが通り、あの菩提講の席にもあの蛇がおりましたが、私と同じように思ってか誰も見つけて声を上げた者もおりません。講が終わってお出になった時も蛇はあなたの後をついていたので、どのようなことになるのか見届けてみたくて、そのまま後をつけ、御存じの通り思いもよらず昨夜はここで明かすことになりました。夜中過ぎまで蛇は柱のもとにおりましたが、夜が明けて再び見ますと、蛇の姿はどこにもありませんでした。このことと符丁を合わせたようにあなたがいまそのような夢の話をなさいましたので、本当に驚き恐ろしくなり、こうして打ち明けた次第でございます。これからはこれも何かの御縁と思って、何事によらずお話しすることにいたしましょう」などと語り合い、互いにつね日頃行き来をする間柄となった。それからのこと、この蛇につかれた女は大変幸せ者となり、この頃は何とかという大臣家の下家司の裕福な家の妻となって万事思いのままの暮らし振りである。誰に聞いても、あああのお人かとすぐに分かるだろうということだ。ちなみに西院から雲林院の間は四キロの距離である。罪を負った蛇はこの距離をにょろにょろと這って、導かれる如くに触れた「法華経」の功徳によってまた人間に戻ることが出来たというのである。きっかけは着物の裾を持ち上げ水辺を戯れていた女が石橋の石を踏み返してくれた偶然である。そしてこの女も幸せになった。━━が、女と蛇の後をつけたもう一人の女はそれからどうなったのであろう。その女はこの「話」のはじめの語り部となったのである。冬日射わが朝刊にあまねしや 日野草城。

 「それから一時間かそこら空白の時間が過ぎた。再び気づくと、太陽は西の果てにすっかり沈んでいた。四時半ごろだ、と彼は思った。今では雲がもくもくと広がり、紫がかった黒い圧迫感のある空だった。冬の匂いがした。雪そのものではないものの、雪の原型のような匂いがした━━雪の組成の匂いだ。」(『失踪』ティム・オブライエン 坂口緑訳 学習研究社1997年)

 「福島第1原発2号機、低圧水で堆積物の一部除去 東電「一定効果」」(令和6年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北野天満宮から上七軒へ。