一と日のびし葵祭や若葉雨 高橋淡路女。今年の葵祭の行列「路頭の儀」は天候不順で一日延びた。晴れて気温の上がった五月十六日、北大路通の商店街のアーケードの切れる日陰の下で行列を待っていると、後ろの者が、京都暮らしは四年目だが行列を見るのは初めてだと云う。この者はいま大学四年生で葵祭の行列がこの三年中止になっていたため漸く見ることが出来るとカメラを構え、嬉しそうな顔をしている。そうであればここではなくこのすぐ目の前を左に折れる加茂街道に立ってまじかに見ればよいのにとも思ったが、もう街道沿いにはびっしり人垣が出来ているかもしれない。江戸期の再開の時から葵祭と呼ばれるようになった賀茂祭は、平安の頃もこれに関わる者にとって心ときめく祭だった。「四月。祭のころ、いとをかし。上達部(かむだちめ)・殿上人(てんじやうびと)も、表(うへ)の衣の濃き淡きばかりのけぢめにて、白襲(しろがさね)どもおなじさまに、涼しげにをかし。木々の木の葉、まだいと繁うはあらで、わかやかに青みわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこし曇りたる夕つ方・夜など、しのびたる郭公(ほととぎす)の、とほく「そら音か」とおぼゆばかり、たどたどしきをききつけたらむは、なに心ちかせむ。祭ちかくなりて、青朽葉・二藍(ふたあゐ)の物どもおし巻きて、紙などに、けしきばかりおしつつみて、いきちがひ持てありくこそ、をかしけれ。末濃(すそご)・むら濃なども、つねよりはをかしく見ゆ。童女(わらはべ)の、頭ばかりを洗ひつくろひて、服装(なり)はみな、綻び絶え、乱れかかりたるもあるが、屐子(けいし)・沓(くつ)などに、「緒すげさせ」「裏おさせ」など、持てさわぎて、「いつしかその日にならなむ」と、急ぎをしありくも、いとをかしや。あやしう躍りありくものどもの、装束(そうぞ)き、仕立てつれば、いみじく「定者(ざうざ)」などいふ法師のやうに、練りさまよふ。いかに心もとなからむ。ほどほどにつけて、母・姨(をば)の女・姉などの、供し、つくろひて、率(ゐ)てありくも、をかし。」(『枕草子』第二段)四月の、賀茂祭のころは、本当に心が惹かれる。木々の葉っぱもまだそんなにも繁っておらず、瑞々しい青さで、霞や霧がかかって景色が薄ぼんやりしてしまうこともなく、理由もなくわくわくしてしまうのだけれど、雲が出てきた夕暮れ時や夜に辺りがひっそりしている中で聞こえてきたカッコウの鳴き声が、聞き違いだったのかと自分でも疑うほどの音で耳にしたような時のあの何とも云えない心持ちをどう表せばよいか。祭りが間近かになると青朽葉やふた藍の反物をざっと巻いたまま紙に無雑作に包んで室の中を忙しげにすれ違いながらおろおろしている様子も微笑ましく思う。普段の時よりもぼかし染めやだんだら染めに目が惹かれるのはどうしてだろう。女の子が髪の毛だけ洗ってもらったまま着替えずに綻び縫いに縫った衣がそれこそほどけてしまいそうになっていたりしていて、鼻緒を挿げ替えてよとか裏を張り替えてよなどと云いながら脱いだ屐子(足駄のようなもの)や沓を手にぶらさげて騒ぎ、「早くお祭りの日が来ないかな」と、ませたように気ぜわしく歩き回る様子も本当に可愛らしい。いつも行儀悪く飛び回っているお転婆な女の子たちも祭りの当日になると衣裳に着替え、華やかな姿になって、まるで法会の行列の先導の法師のように練り歩かせられ、この子らはどれほどの緊張を強いられていることか。その子らの身分によって母親や姨(おば)や姉などが横について手を貸しながら連れ歩く様子も微笑ましい。賀茂祭はこのように貴族らの間で心浮き立つ祭りであったが、祇園会のように一般町民とは関わりがない。祇園会は庶民の悪霊鎮めの祭りであり、賀茂祭は賀茂の神の祟りを懼れた朝廷がその鎮めのための詞と宣令を勅使に遣わし、その神事を執り行う斎王、未婚の内親王を差し出す祭りである。そのはじまりは「山城国風土記」の「逸文」にこう記されている。「賀茂乗馬 妋(いろせ、兄(玉依日賣(たまよりひめ)の兄)、玉依日子(たまよりひこ)は、今の賀茂縣主等(かものあがたぬしら)が遠つ祖(おや)なり。其の祭祀(まつり)の日、馬に乗ることは、志貴島(しきしま、欽明天皇)の宮に、御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)の御世(みよ)、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨雫(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部(うらべ)、伊吉(いき、壱伎)の若日子(わかひこ)に勅(みことのり)して卜(うら)へしめたまふに、乃(すなは)ち卜(うら)へて、賀茂の神の祟(たたり)なりと奏(まを)しき。仍(よ)りて四月(うづき)の吉日(よきひ)を撰びて祀(まつ)るに、馬は鈴を係(か)け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈馳(は)せて、祭祀(まつり)を爲(な)して、能(よ)く禱(ね)ぎ祀(まつ)らしめたまひき。因(よ)りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平(ゆたか)なりき。馬に乗ること此に始まれり。」風雨の災害が賀茂の神の祟りであると卜(うらな)いが出てそれを祓うため鈴をつけた馬を走らせたのがはじまりという賀茂の祭で、朝廷は詞を伝え賀茂の神に祈願する。朝廷は賀茂の神に頭を下げるが、朝廷の権威は世に知らしめていなければならない。なにものも上に無き権威を見せつけなけらばならない。たとえば宮廷の者らが身につけているものや持ち物は最新で最高のものであると。その行列「路頭の儀」を貴族たちがこぞって牛車で沿道に乗りつけ見物したのである。ある年の祭りで清原元輔という年寄りが落馬する。「今は昔、歌よみの元輔、内蔵助(くらのすけ)になりて、賀茂祭りの使ひしけるに、一条大路渡りけるほどに、殿上人(てんじやうびと)の車多く 並べ立てて、物見ける前渡る程に、おいらかにては渡らで、人見給ふにと思ひて、馬をいたくあふりければ、馬狂ひて落ちぬ。年老いたる者、頭をさかさまにて落ちぬ。君達(きんだち)、あないみじと見るほどに、いととく起きぬれば、冠(かぶり)脱げにけり。髻(もとどり)つゆなし。ただほとぎを被(かづ)きたるやうになんありける。馬添ひ、手まどひをして、冠を取りて、着せさすれど、後ざまにかきて、「あな騒がし。しばし待て。君達に聞ゆべきことあり」とて、殿上人どもの車の前に歩み寄る。日のさしたるに、頭きらきらとして、いみじう見苦し。大路の者、市をなして、笑ひののしること限りなし。車、桟敷の者ども、笑ひののしるに、一つの車の方ざまに歩み寄りて言ふやう、「君達、この馬より落ちて、冠落したるをば、をこなりとや思ひ給ふ。しか思ひ給ふまじ。その故は、心ばせある人だにも、物につまづき倒るることは、常のことなり。まして、馬は心あるものにもあらず。この大路は、いみじう石高し。馬は口を張りたれば、歩まんと思ふだに歩まれず。と引き、かう引き、くるめかせば、倒れなんとす。馬を悪(あ)しと思ふべきにあらず。唐鞍(からくら)はさらなる、鐙(あぶみ)のかくうべくもあらず。それに、馬はいたくつまづけば落ちぬ。それ悪(わろ)からず。また冠の落つるは、物して給ふものにあらず。髪をよくかき入れたるに、とらへらるるものなり。それに、鬢(びん)は失せにたれば、ひたぶるになし。されば、落ちん冠恨むべきやうなし。また例なきにあらず。何の大臣は、大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)に落つ。何の中納言は、その時の行幸に落つ。かくのごとくの例も、考へやるべからず。しかれば、案内も知り給はぬこの頃の若き君達、笑ひ給ふべきにあらず。笑ひ給はば、かへりてをこなるべし」とて、車ごとに、手を折りつつ数へて、言ひ聞かす。かくのごとく言ひ果てて、「冠持て来(こ)」と言ひてなん、取りてさし入れける。そのときに、とよみて笑ひののしること限りなし。冠せさすとて、寄りて、馬添ひの言はく、「落ち給ふ、すなはち、冠を奉らで、などかくよしなしことを、仰せらるるぞ」と問ひければ、「しれごとな言ひそ。かく道理を言ひ聞かせたらばこそ、この君達は、後々にも笑はざらめ。さらずば、口さがなき君達は、長く笑ひなんものをや」とぞ言ひける。人笑はすること、役にするなりけり。」(『宇治拾遺物語』百六十二「元輔、落馬の事」)昔、歌人清原元輔という男が内蔵の寮の次官となって賀茂祭の勅使を務め、一条大路を進んでいる時、殿上人が車を何台も駐めて見物しているところで、平常心で通り過ぎることが出来ず、人目を気にしてしまい、思わず馬を鐙で強く蹴ると、馬は暴れ出し、元輔は馬の背から放り出されてしまう。年寄りが頭から逆さまに落ちてしまったのである。貴族の若い跡取りらはこれは大変なことだと目を見張っていると、落ちた地面からさっと立ち上がった勢いで被っていた冠が元輔の頭から脱げ落ちてしまう。何とその頭には束ねておく髪の毛がまったくないではないか。まるで瓶で隠していたみたいにつるっ禿げが現れたのである。馬の口取りが慌てて落ちた冠を元輔の頭に載せようとすると元輔は手で後ろに払い退け、「ああ、じゃまだ。ちょっと待っていろ。あそこの君達に申さねばならぬことがある」と云うと、殿上人らが駐めた車の前に歩み寄る。ちょうどその時雲間から射した日光が元輔の頭に照り返り、それは何ともみっともなく、大路で見物していた者らが何ごとかと大勢集まって来ると元輔を目にして笑ったり囃し立てたり、しまいに騒動がおさまらなくなってしまう。車の中や桟敷席の者らまでも笑って騒ぎ出すと、元輔はある車の前に歩み寄り、「あなた様は落馬して冠を落したことを間抜けに思われるか。決してそんな風には思ったりしないであろう。どうしてそう思うかと云えば、どんなに思慮深い人といえども物に躓(つまづ)いて思わず倒れてしまうことはよくあることだからです。まして馬というものは分別などないのです。この大路は大きな石がごろごろしていて、馬は手綱で引っ張られていますから自分の歩みたいようには歩くことが出来ません。あっちに引っ張られこっちに引き寄せられ、ぐるぐる引っ張られてしまいに倒れてしまうのも無理はないのです。だから今度のことは馬のせいではありません。唐鞍のようなごてごて飾りつけた鞍はいうにおよばず、鐙でも体を押しとどめることは出来ません。馬が何かに毛躓けば乗っている者は落ちます。それはしかたのないことなのです。それと冠が落ちてしまいましたのは、いちいち紐で結んではいないからです。普通は髪を束ねた上に冠を被せ簪を挿すので脱げ落ちることはないのですが、私は鬂(びん)の毛さえ抜けていまはつるっ禿げですから、当然落ちますし、そうであれば冠を恨むいわれもございません。ついでに申し上げればこのようなことは私がはじめてではございません。何とかという大臣は大嘗会の賀茂川の禊(みそぎ)のさ中に冠を落しました。あるいは何とかという中納言はその時にあった行幸の途中で被っていた冠を落しました。このようなことは数えきれないほどあるのです。ですからこれまでにあったことなどをよくご存じないお若いあなた様は、私をお笑いなさってはいけません。お笑いになる方がかえって愚かなことなのです」と、車一台一台指を折って数えながら云い諭したのである。そして云い終えると、元輔は、「冠を持って来い」と云いつけ、受け取りそれを被ると、たちまち笑いがはじけすさまじい騒ぎ声がいつまでも止まないのである。冠を直してさしあげようと馬の口取りが元輔に寄って行ってこう訊いた。「お落ちになられた時にすぐにお召しにならず、どうしてまたあのようなどうてもよいことをおっしゃられるのです」すると元輔は、「生意気なことを云うな。あのようにものの道理を云って聞かせておけば、この君達は後々人を馬鹿にして笑うこともない。そうでなければ口の悪い君達はいつまでも私を笑い者にするに違いないのだ」と応えた。元輔と云う男は、人を笑わせるのが常々自分の役目のように思っていた男であるということである。この清原元輔が『枕草子』の作者清少納言の父親である。清少納言はこの父親をどのように見ていたのであろうか。もうすぐ目の前に現れるはずの「路頭の儀」、葵祭の行列の先頭の現代の勅使は帝からの「詞」を懷に持たず、色とりどりの装束に身を包んだ臨時雇いの者らが馬に乗り、牛車を後ろから押し、あるいは徒歩で御所の南門建礼門を出て砂利の上に設けられた有料観覧席の間を通って堺町御門から丸太町通に出る。ビルの建つ通りを進む長い「平安」の行列の傍らを途切れることなく車が通り過ぎれば、せっかくの王朝絵巻は景色に馴染まずどこからか迷い込んだ者らのようにビルのガラス窓にその姿が映る。行列は糺の森を抜けてその先の下鴨神社での神事の後、昼を挟んで再び下鴨東通から北大路通に出、加茂川に架かる北大路橋を渡り、上賀茂神社に向かって加茂街道を北に進む。加茂街道ケヤキやエノキやクロマツの並木道である。進む右手は加茂川の流れで左手に建つ建物も木々に遮られている。いまやって来た行列の先頭が北大路橋を渡って右に折れ、加茂街道を進んで行くのが見えるが、北大路通のアーケードの日陰からはやや遠い。うしろの学生は電気設備の格納庫の上に登ってカメラの望遠レンズを構える。そのレンズを通せば烏帽子に二葉葵を挿した眼鏡面の臨時雇いの行列の顔つきまで見えるかもしれないが、ここから並木道を遠ざかって行く「平安時代」の後ろ姿を見ることは出来ない。糺の森のあの人混みの中でじっと待つのは恐らく息苦しいであろう。見送る後ろ姿は加茂街道の方が良い。しかし後ろの学生よ、涼しいアーケードの日陰に留まっている限りその後ろ姿を目にすることは出来ないぞ。

 「しかしこの川は普通の朝鮮地図には出されなかった。川だけは出ている場合でも、名前までは出て来なかった。それがわたしには残念だった。朝鮮ではまだこの程度では名前までは出してもらえないらしかった。しかし龍興江はまぎれもなく永興の川だった。永興郡耀徳面の山中に発し、途中、龍盤里で宣興面山中から南下する支流と合し、東へ向って永興湾へ注ぐ。わたしはこの川で泳ぎ、一度溺れかけた。」(『夢かたり』後藤明生 中央公論社1976年)

 「福島県漁連、国に改めて風評懸念を伝達 処理水海洋放出方針巡り」(令和5年5月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)