陰陽師歩にとられ行冬至哉 炭太祇。野ゝ中に土御門家や冬至の日 炭太祇。「歩にとられ行」はおぼつかない足取り、いまにも転びそうな様子が目に浮かぶ。「土御門家」は陰陽師安倍晴明がその元(もとい)の公家である。どちらの句も江戸時代の陰陽師という落ちぶれた職業を詠っているようだ。『京都大事典』(淡交社1984年刊)の安倍晴明はこのように書かれている。「平安中期の陰陽家天文博士賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学んで奥義に達し、さまざまな奇蹟を行なった。ことに職神(しきがみ、式神。一種の精霊)を駆使することに巧みで、職神十二神将を一条戻橋の下に封じてあったという。」『宇治拾遺物語』に出て来る安倍晴明はこうである。「昔、晴明、陣に参りたりけるに、前(さき)はなやかに追はせて、殿上人の参りけるを見れば、蔵人の少将とて、まだ若くはなやかなる人の、みめまことに清げにて、車より降りて、内に参りたりけるほどに、この少将の上に、烏の飛びて通りけるが、穢土をしかけけるを、晴明きと見て、あはれ、世にもあひ、年なども若くて、みめもよき人にこそあんめれ、式にうてけるにか、この烏は、式神にこそありけれと思ふに、しかるべくて、この少将の生くべき報いやありけん、いとほしう晴明が覚えて、少将のそばへあゆみ寄りて、「御前へ参らせ給ふか。さかしく申すやうなれど、何か参らせ給ふ。殿は今夜え過させ給はじと見奉るぞ。しかるべくて、おのれには見えさせ給ひつるなり。いざさせ給へ、もの試みん」とて、一つの車に乗りければ、少将わななきて、「あさましき事かな。さらば、助け給へ」とて、一つの車に乗りて、少将の里へ出でぬ。申(さる)の時ばかりのことにてありければ、かく、出でなどしつるほどに、日も暮れぬ。晴明、少将をつと抱きて、身の固めをし、また、何事にか、つぶつぶと、夜一夜いもねず、声絶えもせず、読み聞かせ、加持しけり。秋の夜の長きに、よくよくしたりければ、暁がたに、戸をはたはたと叩きけるに、「あれ、人出して聞かせ給へ」とて聞かせければ、この少将のあひ聟にて、蔵人の五位のありけるも、同じ家に、あなたこなたに据ゑたりけるが、この少将をば、よき聟とてかしづき、いま一人をば、ことのほかに思ひ落したりければ、妬(ねた)がりて、陰陽師をかたらひて、式をふせたりけるなり。さて、その少将は死なんとしけるを、晴明が見つけて、夜一夜祈りたりければ、そのふせける陰陽師のもとより、人の来て、髙やかに、「心の惑ひけるままに、よしなく、まもり強かりける人の御ために、仰せをそむかじとて、式ふせて、すでに式神かへりて、おのれ、ただ今、式にうてて、死に侍りぬ。すまじかりけることをして」と言ひけるを、晴明、「これ聞かせ給へ。夜べ見つけ参らせざらましかば、かやうにこそ候はまし」と言ひて、その使ひに人を添へてやりて、聞きければ、「陰陽師は、やがて死にけり」とぞ言ひける。式ふせさせける聟をば、しうと、やがて追ひ捨てけるとぞ。晴明には、泣く泣く悦びて、多くのことどもしても飽かずぞ悦びける。誰とは覚えず、大納言までなり給ひけるとぞ。」(「二十六 晴明、蔵人の少将封ずる事」)昔、晴明が紫宸殿の陣の座に参上した時のこと、威勢よく先払いをさせながら参上する殿上人を見れば、近衛少将の蔵人ながらまだ若く溌溂としていて、顔立ちに品がある。その少将が車から降り、殿の内に入りかけたその時、頭の上を烏が飛び去りざま糞を落として行ったのを晴明は見逃さなかった。世の評価も高く、年も若く、恵まれた顔立ちまでしている様子なのに、式神の仕業なのか、そうだあの烏は式神に違いないと思いながらも、前世の何かの因縁でこの先報いが待っているのは気の毒であると晴明は考え、すぐに少将のもとに歩み寄り、「主上の御前へご参上なさるのか。さしでがましい口の利き方をいたしますが、どうしてもご参内なされますか。あなた様は今夜はここでお過ごしになさることがお出来にならないとお見うけいたします。確かな理由があって私には見えてしまっているのです。さあ、お出で下さい。とにかく試してみましょう。」と云って、ふたりで車に戻ると少将は震え出し、「何てことだ。もしそうであるなら、どうかお助け下さい。」と云い、そのまま少将の住まいまで車を引き戻し、それが午後四時ごろであったので、戻った時には日が暮れてしまっていた。住まいに着くとすぐに晴明は少将をぐっと抱き寄せ、術法の身構えを崩さず、何ごとかを途切れなく低い声で一晩中寝ずに少将に云い聞かせ、祈祷を続けたのである。秋の夜長の渾身の祈祷であったからであろう。夜の明け方、戸を叩く音がしたので晴明が、「どなたか誰かに出てもらって伺って下さい」と云って聞いてもらった話によると、この少将の姉妹の聟に蔵人の五位の者がいて、持ち家のあちこちに住まわせていた。舅はこの少将を聟として大切に可愛がり、もうひとりの五位の方は逆に見下すような扱いをしていたので、妬ましく思い、ある陰陽師と懇意になり秘かに式神を置いていたのである。そういうわけで蔵人の少将は危うく呪い殺されるところを晴明が見つけ、一晩中祈祷を施したのであるが、その式神の術法をした陰陽師のところからやって来た者が甲高い声で、「心に迷いがあったためただ必死に願われたその方のお言葉に背くまいと秘かに式神を置きましたが、式神は戻って来て、たったいまその陰陽師式神に討たれて死んでしました、してはならないことをしてしまったからです。」と云ったので、晴明は、「お聞きになりましたか。昨日見つけてさしあげなければ、あなた様がこのようになってしまわれていたのです。」と云い、人をその使いと一緒に見に行かせ、その者が戻って来ると、「陰陽師はやはり死んでいました」と云った。式神を秘かに置いた五位の蔵人はまもなく舅に追い出されたということである。少将は泣いて悦び、晴明に、いくらお礼を尽くしても足りないほど嬉しいと云ったという。この少将が誰だったのかはいまとなっては分からないが、大納言にまでおなりになったということである。あるいは、「この晴明、あるとき、広沢の僧正の御坊に参りてもの申し、承りけるあいだ、若き僧どもの晴明に言ふやう、「式神を使ひ給ふなるは、たちまちに人をば殺し給ふや」と言ひければ、「やすくはえ殺さじ。力を入れて、殺してん」と言ふ。「さて、虫なんどをば、すこしのことせんに、かならず殺しつべし。さて、生くるやうを知らねば、罪を得つべければ、さやうのことよしなし」と言ふほどに、庭に蛙の出で来て、五つ六つばかり踊りて、池の方ざまへ行きけるを、「あれ一つ、さらば殺し給へ。試みん」と、僧の言ひければ、「罪を作り給ふ御坊かな。されども、試み給へば、殺して見せ奉らん」とて、草の葉を摘み切りて、ものをよむやうにして、蛙の方へ投げやりければ、その草の葉の、蛙の上にかかりければ、蛙ま平にひしげて、死にたりけり。これを見て、僧どもの色変りて、恐ろしと思ひけいり。家の中に人なきをりは、この式神を使ひけるにや、人もなき蔀(しとみ)を上げおろし、門をさしなどしけり。」(「一二七 晴明、蛙を殺す事」)晴明がある時、嵯峨広沢池の畔の、僧正寛朝(宇多天皇の皇孫、敦実親王の皇子)の遍照寺に参上し用向きを伝えその返事を待っている間に、若い僧のひとりが晴明にこんなことを訊いた。「式神をお使いになるということですが、簡単に人を殺すことが出来るのですか。」晴明は、「たやすくは殺せませんが、それなりに力を込めれば出来ないこともありません。」と応える。「まあ、虫などはほんの少しの力で殺すことは出来ますが、私は生き返らせる方法を知りません。そんなことでもいらざる罪になるので、そのようなことをしてもつまりませんが。」その時、たまたま庭に蛙が出て来て五六歩ばかり池の方に跳んで行くのを見て、「あの蛙を試しに殺してみて下さい。」と僧が云うと、「罪作りなお方である。しかしどうしても私を試そうというのであれば、お見せいたしましょう。」と晴明は云い、辺りに生えていた草の葉を一枚ちぎり、呪文のような言葉を唱えるようにして、その葉を蛙に投げつけると、葉の下になった蛙は忽ちぺしゃんこに潰れ死んでしまった。それを見た僧たちは青ざめ、つくづく恐ろしいと思ったのである。晴明の家で留守を守る者が誰もいない時、晴明はこの式神を使ったのであろうか。蔀はかってに撥ね上がっては閉じ、門もひとりでに閉まったというのである。この安倍晴明を祀る晴明神社が上京葭屋町通一条上ルにある。堀川通に面して建つ一の鳥居には、五芒星の額が掲げられている。ぐるりを建物で囲まれた狭い敷地の、社務所の玄関の上がりの両端に寄せた二組の履物に冬至の日光が当たり、大きなガラス窓の内から、そのどちらかの履物の持ち主であろう者の、くぐもってはいたが神主に切々と何ごとかを訴える声がしていた。上加茂へふと参りたき冬至哉 成田蒼虬。冬至とてなすこともなく日暮れけり 石川桂郎

 「雲のうえのどぎつい光。四時、針のように細い清らかな雨がふる。領事館庭園のポインセチアが雄蕊に銀の露をつけたままこわばっている。夜明けなのに鳥も歌わない。微風が棕櫚の樹をゆすり、かすかに、乾いた固くるしい音をたてる。マレオティス湖にひっそりと雨がふる。」(『ジュスティーヌ』ロレンス・ダレル 高松雄一訳 河出海外小説選1976年)

 「処理水風評、東電が賠償基準公表 市場、宿泊統計で把握」(令和4年12月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)