嵯峨宝筐院(ほうきょういん)の創建は平安期であると伝えられているが、その東に隣る清凉寺を「五台山清凉寺は小倉山の東なり、嵯峨釈迦堂と称す。」と記す安永九年(1780)上板の『都名所図会』にも天明七年(1789)上板の『拾遺都名所図会』にも宝筐院の名は載っていない。これには理由がある。その当時宝筐院は廃寺になっていたからである。大正四年(1915)に京都市役所が編纂した『新撰京都名勝誌』にこのような記載がある。「小楠公首塚 葛野郡嵯峨村字上嵯峨、清凉寺の西一町許(ばかり)の竹林中にあり、高さ八尺許の石卵塔にして、楠木正行(まさつら)の首級(しゅきゅう)を埋む。其の傍に寶篋院塔あり、足利義詮(よしあきら)の墳墓となす。生前の怨敵こゝに墓田を共にす、一奇といふべし。相傳ふ、此處義詮の香華所寶篋院の舊地にして、正行の死後寺僧は正行と舊交ありしを以て、義詮に請(こ)ひて其の首級をこゝに葬りしが、義詮は深く正行の精忠を欽し、己の死後遺骸を同じ塋域に埋めんことを記し、遂に其の塚畔に葬りしなりと。正行の靈牌は楠左金吾正行義勇大居士と書し、もと同寺に安んぜしが、其の後同寺は廢壊に歸し、靈牌は目下天龍寺塔頭松巖寺にあるといふ。」南朝の武将楠木正成の長子正行の「精忠を欽し」た北朝側の室町幕府二代将軍足利義詮が自ら夢想国師の弟子であった黙庵周論にその正行の墓の傍らに葬られることを望んだという宝筐院は「廢壊に歸し」ていたのである。宝筐院の栞によれば「大正六年(1917)楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院が再興された」とある。天龍寺から元の境内を買い戻したのは海運王川崎正蔵の甥で養子に入った神戸川崎銀行頭取の川崎芳太郎である。この「廢壊」の痕跡というかその雰囲気が、本堂を取り囲む庭に色濃く残っている。あるいは「手つかず」の雰囲気が残るような庭にしたというべきか。庭の西の奥に楠木の菊水紋と足利の二つ引き両の紋を柵に印した正行、義詮の墓所の傍らは竹藪で、この藪の最も奥まったこんもりと樹木に隠れるように滝のような石組があり、その手前の両の土の盛り上がりの間の小石の並びは水の枯れた小川の様でこの撓る葉蔭を抜けると水の小流れのような白砂の平らな筋みちが丈の疎らな木立ちを貫き、本堂の前に来ると幅広くくねるように淀み、東にまた脈絡のない木立ちの中に流れの筋みちをつけている。その白砂の淀みの中や縁(ふち)に幾つかの石が置かれていて、その縁の陸(くが)は苔むし、この庭の様を見れば枯山水のようである。が、この水の小流れのような白砂のみちは、あとからの造作ではなく、長い間放っておかれた木立ちの足元にあった「本物」の水の流れの跡の如くに見える。そう見えるように枯山水に造園したのではなく、安直にたとえば手がかかるといったような「都合」で流れを白砂で埋めてしまったような。特に境内の境の木立ちは鬱蒼としていて、ところどころで太い枝を曲げ、八方に枝を伸ばしていて見上げる空を覆っている。本堂の西の濡縁に立つと、百日紅越しに小倉山の稜線が見え、庭の樹木がそれほどの高さでないことが分る。であれば庭の樹木はそれほどの年月が経っていないのか。が、木立ちは一本一本を庭師の目を通して植えたようには見えず、無造作なあるいは勝手放題な木の生え方は計算ずくの「美」よりも親しみが持てる。いまは青葉であるが、本堂を囲む木立ちはすべて真っ赤に紅葉するモミジやら錦木である。宝筐院は永らく知る人ぞ知る紅葉の名所であったという。無造作に紅葉するモミジが庭の器に合わせ手を入れたモミジより迫力があるのは云うまでもない。白砂のみちがもし、藪の中を流れていたかもしれぬ水の流れを埋めてしまった跡であるのであれば愚かである。白砂を水の流れとして「見立て」るより「本物」の水の流れを見る方がこの宝筐院の庭にはふさわしい。凌霄花(のうぜんか)そよとの風もなかりけり 清原枴童(かいどう)。

 「五寸釘と小さなかすがいの幾本かで小屋は組み立てられ、ぬきの代り古板をつないで打ちつけ、杉皮を割竹で押えて屋根をふき、荒壁を塗って低い床を張った。二尺角の炉を切り、三枚の古戸は煤けた硝子のまま何とかあけたて出来るように南面にたて並べた。農具を守るために頭のつかえそうな三尺の下屋をおろして風雨に備えた。一尺幅に一間の不細工な小さい濡縁。でもそれは仕事に疲れて休むにも、夜の月星を眺めるにも、ひとりの彼には余りある広さを提供してくれる。まるで誂えたように、坑木にならず伐り残された姿のねじれた数本の松が、小屋を包む形で松籟の音をふりそそいでくれた。」(「暮鳥と混沌」吉野せい『吉野せい作品集』彌生書房1994年)

 「処理水海洋放出始まる、東電第1原発 初回は17日間で7800トン」(令和5年8月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)