京福電気鉄道嵐電帷子ノ辻駅のそばの遮断機の下りた踏切りを一両だけの電車が通過すると、ふわふわと目の前に綿毛が舞い上がった。線路沿いに互いを支えるように、あるいは反目するようにゆらゆらと立つ薊(あざみ)の種が飛んだのだ。薊はその葉や花を包んでいた棘が棘のまま枯れている。森にゐて薊は白毛飛ばすなり 三橋鷹女。前日の台風の雨を避けるため一日シートで覆われていたのであろう、そのシートが解かれたあまたの本が雲間から射す日の光に晒されている。下鴨神社の糺(ただす)の森の古本まつりは八月十六日が最終日である。神事の馬が駆ける木々の間を貫く道に八十万冊が並べられているという。生まれ育った福島の南、白河生まれの中山義秀の「テニヤンの末日」の文庫が目に留まり手が伸びる。中山義秀の小説はいまだ読んだことがない。中山義秀は同じ福島会津若松生まれの横光利一の弟子であり、横光利一が選考委員の時に芥川賞を受賞した。テニヤンはサイパンの南西にあり、いまは観光島であるが、かつてはドイツ領となり第一次大戦後日本の統治となって約一万六千の日本人がサトウキビや綿花を植え鰹を漁って暮らしていた島である。この島が太平洋戦争の末期激戦の舞台となり、日本兵約一万七百名の内生きて還ったのは三百余名だけである。テニヤン島を手中に収めたアメリカ軍はその翌年、昭和二十年(1945)八月この島から飛び立ったB29爆撃機から広島と長崎に原子爆弾を落としたのである。「テニヤンの末日」は昭和二十三年(1948)に発表されている。話を貫く筋はなく二人の軍医が次第に米軍に追い詰めれて行く戦争の日常を淡々と描いている。その終わり近くの描写はこうである。「司令部附の若い航空参謀は、後退の途中崖から墜ちて大腿部を骨折していた。彼は担架にのせられて司令部についてきたが、もはや担架で運ぶ余裕はなくなった。そこで彼は後にのこって自決することになった。浜野大尉は軍医として彼の自決に立会い、その跡始末をすることを命じられた。参謀と浜野の残された所は厳壁の狭間だった。一条の隘路(あいろ)をなして山腹を縫い上下に通じていた。航空参謀は厳壁の一方に背をもたせかけ両脚を投げだしたまま、一歩も動くことができなかった。参謀は近頃少佐になったばかりで、漸(ようや)く三十歳になったかならぬくらいの年頃だった。神経質らしく身体は痩せていた。負傷の苦痛で顔色もひどく青ざめて見えた。参謀は痛まぬ片脚をひきよせて正座の姿勢をとろうとした。それから両眼を正面にすえて静に、「一ツ軍人ハ」と軍人勅諭を唱えだした。一ツ軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ、一ツ軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ、一ツ軍人━━、その間も爆音はたえず頭上に鳴りひびき、地の振動はしばらくも止む時がなかった。飛びあがるような轟音をもって砲弾が近くに炸裂したかと思うと、粉のような土煙が厳壁の中に舞いおちてきた。しかし参謀は周囲の騒音は一切耳に入らぬもののように、高くも低くもない声音(こわね)で一条一条をゆっくりと朗誦(ろうしょう)しつづけていった。まるで今わの自身の声に自分で聴き入っているかのように。参謀はもとより勅諭の意味を、あらためて考えなおしているわけではあるまい。又たんに軍人らしい習慣から、無意識に復誦しているのでもなかったであろう。恐らく年若な彼は死にのぞんで、何ものかに縋(すが)り心を安らかにせずにはいられなかったに相違ない。昔の武士なら南無阿弥陀仏をとなえるところである。キリスト教の信者ならば、神にむかって禱(いのり)をささげる気持であろうか。軍人精神の鋳型で教育されてきた彼は、身にしんだ軍人勅諭を読誦する以外、死を安らかにする手だてを知らなかった…。浜野は傍で聞いていて、別段感動する心もおきなかった。又彼の態度を悲壮とも感じなかった。さりとて彼の無智を嗤(わら)う気持もない。浜野はすべての事に不感症になっていた。彼はただ自分にあたえられた責務をはたすつもりで参謀の自殺をじっと待っていた。参謀は読誦を終ると、浜野の方をふりむいて眼顔でちょっと挨拶をした。終った合図ともとれるし別れの挨拶ともとれる。二人は初めから終りまで口を利かなかった。他人の死に冷淡だからではなく、知らぬ者同士の遠慮からでもない。生きることが自然で死が不自然であるのとは反対に、この場合生きることは不自然で死ぬのがあたりまえだった。時の遅速はあっても、その自然な運命をたどる二人の身の上に変りはない。そのような際何を事々しく語りあう必要があろうか。浜野は肩にさげていた拳銃をサックからぬきとると、黙って参謀にさしだした。参謀は拳銃をもっていなかったから、彼の拳銃を貸したのである。軍の拳銃には発射の悪いのがあった。参謀は念のため銃口を地にむけて試射してみた。ブスッと音がして丸(たま)がとんだ。それを見ると参謀はおもむろに拳銃を右のこめかみにあてた。それから両眼をつぶり、静に息を吸いこんで引金をひいた。鼻血が鼻孔から、ド、ドッと流れ出た。頭が左右にぐらぐらと揺れうごき、丁度居眠りをはじめた人のように次第に低く、さしうつむいたかと思うと、咽喉の奥でゴロゴロと鳴る音がした。息が絶えても参謀の身体は厳壁に凭(よ)ったまま倒れなかった。浜野は参謀の右手から、拳銃をそっと取りはずした。それから参謀の身体を地に横たえて、その顔を彼の軍帽でおおうた。跡始末といってもそれ以外に何もすることはなかった。浜野は遺骸のそばに腰をおろして、水筒の水を少し飲んだ。深い疲労感が彼をものうくさせた。浜野は厳壁にもたれて眼をつぶった。そのまま我知らずうとうとと睡りに入った。」(「テニヤンの末日」中山義秀『碑・テニヤンの末日』新潮文庫1969年刊)厚生労働省のホームページによれば、テニヤン島での死者は一万五千人で、そのうちの五千人の遺骨はいまだ収集されず土の下に眠っている。歳月を経たその土の上には草が生えては枯れ生えては枯れて、それらの草に混じって薊の花が咲き、種をつけた綿毛は台風の風に紛れ日本まで飛ばされて来る。八月十六日は五山の送り火である。大文字山、西山東山、船山、左大文字山曼荼羅山に今年も火が灯った。盆のはじめに迎えた霊を送る火であり、京都はこの日を境に秋めいてくるという。

 「「や! 來たぞ」と清吉は咄嗟(とっさ)に、伏せてゐた目を、外がはの方へ見上げて聴き耳を立てた。カタカタカタといふ急ぎ足の駒下駄の音が不意にその時、清吉の居る表二階へ━━さうして清吉の記憶の耳へひびいて來たからであつた。邦子の足音だ! 聞き慣れた自分の家族の足音である。寒いころに外へ買ひ物に出て急いで歸つて來る邦子の足音だ! 清吉にはこみ上げて來る気持であつた。」(「侘しすぎる」佐藤春夫『厭世家の誕生日他六篇』岩波文庫1940年)

 「処理水海洋放出の開始時期、週明けにも判断 22日に閣僚会議か」(令和5年8月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)