都忘滋賀より京へ嫁せし人 今井妙子。都忘れという花の名は、第八十四代順徳天皇が詠んだとされる「いかにして契りおきけん白菊の都忘れと名づくるも憂し」からきているという。どういう理由で毎年きまって花を咲かせる白菊を都忘れ、都にいたころのことを忘れさせてくれると名づけても本当は忘れたくないのです。順徳天皇は己(おの)れの父である後鳥羽上皇が起こした承久の乱(承久三年(1221))で北条に破れ、流された佐渡でこの歌を詠んだという。隠岐に流された後鳥羽上皇は常々菊の花を好み、「思い出でよまがきの菊も折々はうつろひはてし秋の契りに」「ながらへて見るは憂けれど白菊のはなれがたきは此世なりけり」思い出してごらん籬(まがき)の菊も時が来れば花も葉も散って枯れてしまうがまた秋が来れば咲き誇ることを、いつまでもじっと見ているとさすがに飽きてくるがこの世に生きている限り白菊の無い生活は考えられない、などの歌を残している。順徳天皇にとって白菊は、それを好んでいた父後鳥羽上皇と同時に一緒に過ごした都を思い出させる花であり、父に会うことも都に住むことも叶わないいま、ひと時を慰め忘れさせてくれる花であるが、そのどちらも忘れることが出来ないのが辛いと順徳天皇は嘆いているのである。昭和八年(1933)に改造社から出た『俳句歳時記』にも昭和九年(1934)初版の高濱虚子編『新歳時記』にも都忘れは季語の項目として出ていない。『原色牧野植物大圖鑑』(北隆館、昭和五十七年(1982)刊)に、「ミヤマヨメナ(キク科シオン属)、和名は深山嫁菜。花屋で売られるアズマギクやミヤコワスレはこの園芸品種。」と記されている。都忘れはミヤマヨメナを恐らくは昭和に入ってから品種改良され名づけられた名であり、その名づけた者は順徳天皇が詠んだとされる歌の「都忘れ」をいつの日か己(おの)れの菊に名づけようと心秘かに思っていたのかもしれない。都忘滋賀より京へ嫁せし人、は都忘れが深山嫁菜であることを踏まえて詠んだのであろう。「嫁せし人」のその後は知らず。とほく灯のともりし都忘れかな 倉田紘文。

 「あいかわらず雨に曇っている窓の向こうに、整然と等間隔にならんでいる鉄塔の流れを不意にほんのすこし強くかき乱すように、基盤縞模様の信号機がその鉄塔の列に重なってあらわれ、ぐるっと四十五度廻る。すこし強い振動がきて、きみの右手の下にある灰落しの蓋が飛びはねる。通路の向こうの窓ガラスに、小さな流れの束で縦に縞目がついているありさまは、まるでウィルソン霧函のなかで分子がきわめてゆっくりと、ためらうように運動するときの軌道のようであり、その窓ガラスの向こう側に、一台の雨覆いをかけたトラックが、道の黄色い水たまりのなかで、ものすごく跳ねをあげている。」(『心変り』ミシェル・ビュトール 清水徹訳 岩波文庫2005年)

 「処理水「満杯」は24年度以降 第1原発タンク試算、放出時期影響か」(令和5年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)