目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身に危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを渡る者や屈強な者の力では耐え得ぬ物を、ある頻度で一定の間渡す場合には、筏(いかだ)や舟を並べた上に板を置く浮橋を、流れの上に架けるかもしれない。その岸から岸へ人や物の往来が頻繁になる、あるいは頻繁にしようとする場合には、金を投じて木や石やコンクリートで恒久的な橋を架けることになる。その場合、誰もが恒久を願うのであるから、橋は頑強に造られる。が、それほど頑強でもなく造られた木の橋が、大山崎に近い木津川に架かっている。橋の名は上津屋橋(こうづやばし)、あるいは木津川流橋(きづがわながればし)、あるいは短く「流れ橋」と呼ばれ、全長356.5メートル、幅3.3メートルで八幡市(やわたし)と久世郡久御山町(くみやまちょう)を結んでいる。人と自転車だけを通すこの橋は、その時の予算の都合で、橋脚の上に組んだ板を載せただけの造りになっている。手摺も、夜照らす明りもない。川の水位が上がると、板は水の上に浮かんで流されるので「流れ橋」と言う、という。板はワイヤーで橋脚と繋がっていて、流れ去ってしまうことはないが、大水で橋脚から流れ落ちることがあっても「やむなし」という、およそ人間の造るものらしくない、鳥が作る鳥の巣のような橋なのである。その歴史は、昭和二十八年(1951)三月に完成し、その年の七月に流されて以降、平成二十六年(2014)八月の流出まで二十一回、「流れ橋」は橋脚の上から「やむなく」板を失っている。久御山町の側の、ひと息では上れない土手の下には田圃と茶畑が広がり、どの田圃も鍬入れが終わっている。板を失えば半年の間使えないというこの橋は、この田畑道の延長なのである。この辺りに住む者でない者が、時代劇にも使われる「流れ橋」を渡りに来る。見上げる土手の先には空以外に何もなく、土手の上に立って田圃を見下ろし、あらためて向こう岸まで橋脚の連なる「流れ橋」に目を遣る。単純な景色であり、橋を渡ろうとする者の心は、景色の明快さにつられるように、明確になる。敷かれた板の、幾つも空いた古い留め孔の跡をそのまま古い留め孔の跡と見、下の浅い水の流れをただ浅い水の流れと見、川の大方を占める草の生えた砂地を砂地と見たままに受け入れ、興味をどこかの一方に傾ければ忽(たちま)ち落下してしまう可能性があるのであるから、足と目の感覚は明確であるはずの心を素通りして、明確にならざるを得ない。橋を渡りに来ただけの者は、渡り終えると、向こうの土手を上ってひと眺めし、土手を下り、橋を渡って戻って来る。向こう岸から来た者は、こちら側まで渡って来ると、踵(きびす)を返し、戻って行く。何枚か撮った「流れ橋」の写真のうちに、若い家族の姿が写っている。河原に下り、橋を遠目に撮った一枚である。その橋の上を歩く家族の母と娘の長い髪が、風に巻き上げられている。この日、それほどの風が吹いていた記憶はないのであるが。

 「しかし今のかれはすぐその手を止めて放心状態に入った。かれはテーブルの木目を細い目でぼんやりとみつめ、その形のリズムを楽しんでいるように視線をうごかしていた。かれはあるいは、木目を遠浅の海水浴場に擬し、それを崖の上から見下ろしている気持になっているのかもしれなかった。」(三木卓『野いばらの衣』講談社1979年)

 「格納容器水中「1.5シーベルト」 第1原発1号機、強い線源か」(平成29年3月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)