大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)という名は、聞いた記憶があるが、何者かよく分からない。蓮月は、江戸幕末の歌人、陶芸作家である。その蓮月焼と呼ばれる、自作の和歌を釘彫りした手でこねたいびつな器は、評判の京土産であったという。蓮月の詠んだ和歌は、たとえばこのようなものである。つれづれと春のながめの手すさびにむすびてながす軒の糸水。明けぬるかほのかすみつつ山の端のきのふの雲は花になりゆく。山ざとは松のこゑのみきゝなれて風ふかぬ日はさびしかりけり。くさの名のおもひのはてはくちてだに野べの螢ともえわたるらん。いにしへを月にとはるる心地してふしめがちにもなる今宵かな。散りつもるこの葉の山をへだてにていとどうき世にとほざかりゆく。柴の戸におちとまりたるかしの実のひとりもの思ふ年のくれかな。明けたてば埴(はに)もてすさび暮れゆけば仏をろがみ思ふことなし。あるいはこんな歌も詠んだ。戊辰のはじめ事ありしをり あた(仇)みかたかつもまくるもあはれなりおなじ御国の人とおもへば。これは、蓮月が勤王派と親交があったとする噂をもとに、西郷隆盛の手にこの歌が渡り、勝海舟との会談後の江戸無血開城に繋がったという作り話を呼ぶことになった歌である。「蓮月、初名は誠(のぶ)、姓は大田垣氏。父光古(てるひさ)は因州大覚寺村の人。中年におよんで京都に入り、華頂王(知恩院門跡)に仕えるうちに誠が生まれた。誠は幼いとき母をうしない、父によく仕えた。うない髪の年頃を脱したので、父は彦根の人で近藤某というものを配して夫婦にした。子女は四人できたが、みな早くに死んだ。また夫の近藤某もそれにつづいて死んだ。このとき、誠は三十二歳。もともと美形の女なので、放蕩者が何べんも言い寄った。誠はわが身をうらめしく思い、そばにあった秤(はかり)を引き寄せると、自分で歯を抜いた。鮮血とびちり、放蕩者はおそれおののき、逃げ去った。ここにいたって、誠は髪をそり、墨染の衣をまとい、名を蓮月とあらため、ひそかに和歌を詠んで、それをたのしみにした。こうして、十年すぎ、父も歿した。尼は悲しみをおさえきれず、こんな歌を作った。つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとり残りてものをこそおもへ。たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ。ついに岡崎に隠れ暮らした。埴(はに)をこねて茶碗を作り、これで生計を立てた。晩年にはいよいよ世塵をいとい、さらに遠くの西賀茂に隠れ住んだ。明治八年十二月三日終焉。行年八十五歳。」(「書蓮月尼」中根香亭『香亭蔵草』大正三年(1914)刊)「大田垣蓮月 寛政三~明治八(1791~1875)幕末・明治初期の女性歌人。名は誠(のぶ)。出家して蓮月と称する。京都に生まれ、大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となる。十七歳で光古の養子望古(もちひさ)と結婚、のち死別し、彦根藩士石川重二郎を婿に迎えたが、蓮月が三十二歳の時に没したので出家した。養父とともに知恩院山内真葛庵に住んだが、四十二歳の時に養父を失い、四人の子供もすでに夭折(ようせつ)して、孤独の身となる。岡崎・知恩院・西賀茂などに転々と庵居し、人に勧められて、自詠の歌を彫りつけた陶器をつくった。線の細い文字を特徴とするこの陶器は蓮月焼と呼ばれて流行したが、一鍋一椀の食べ物以外は貧しい者に施して清く淋しい生涯を送った。」(『京都大事典』淡交社1984年刊)「蓮月尼隠棲茶所 神光院門内左手にあり、幕末の歌人大田垣蓮月が晩年に隠棲した。蓮月尼は名を誠(のぶ)といい、寛政三年(1791)鴨川西畔の遊廓三本木に生れ、まもなく京都知恩院の寺侍大田垣光古(てるひさ)の養女となった。二度結婚したが、愛児に死別し、文政三年(1820)三十三歳で落髪、蓮月と号した。生活の資として陶器を作り、自詠の歌と号を刻んだ急須や茶碗は、蓮月焼ともてはやされた。孤独を求めて生涯三十数回も住まいを替え、「屋越しの蓮月」ともいわれた。当所には慶応二年(1866)以来住み、明治八年十二月十日、ここで八十五歳の生涯を閉じた。茶所は四畳半の部屋と三畳の台所からなり、窯は土間に設けられているが、わが子同様にかわいがった富岡鉄斎筆の蓮月庵図が往時を思わせる。また蓮月が生前愛して「うぐひすの都にいでん中やどりかさばやと思ふ梅咲にけり」と詠んだ梅が茶所の前にある。」(『京都・山城 寺院神社大事典』平凡社1997年刊)「蓮月は寛政三年(1791)正月八日、京都の三本木に生まれ、誠(のぶ)と名付けられた。父に当たる人は故あって父を名乗らず、母に当る人も母を唱えることが出来ない事情があった。のぶは生後十日余で大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となった。………のぶ、のちの蓮月の実父は伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)という人である。良聖は藤堂新七郎家の六代目に当たり、明和四年(1767)に生まれ、寛政十年(1798)八月二日、三十二歳で病歿した。」(杉本秀太郎『大田垣蓮月』青幻舎2004年刊)藤堂良聖と大田垣光古を結びつけたのは、杉本秀太郎によれば囲碁であるという。天明の大火で失った藩邸の再建で上洛した良聖を、藤堂高虎の藤堂家と関係浅からぬ知恩院で光古が囲碁の相手をしたのではないかと杉本は推測している。誠の実母は、藤堂高虎と縁(ゆかり)のあった丹波亀山藩に嫁ぎ、その亀山城に誠は、望古(もちひさ)と結婚する十七歳までの十年間御殿奉公に出ている。長男長女の死の後、「次女が智専童女となった文化十二年(1815)には、この次女の死の二箇月あまりのちに、養子の望古が死亡する。しかも彼はこの死に先立って大田垣家から離縁され、兄の田結荘天民のもとに身を寄せ、そこで病歿したとされる。のぶは二十五歳である。」(杉本秀太郎『太田垣蓮月』)誠の再婚相手は、文政二年(1819)に大田垣家に養子に入った彦根藩士石川重二郎であり、古肥(ひさとし)と名を付けられ、その重二郎古肥は、文政六年(1823)に病死し、文政八年(1825)には、その忘れ形見の女児が七歳で病死する。もう一人いたとされる男児は、文政十年(1827)に死亡したという。蓮月と共に文政六年(1823)落髪して西心と名乗った養父光古の死は、天保三年(1832)、蓮月四十二歳の時である。蓮月の焼き物はこの後に始まり、やがて贋物(にせもの)が出回るほどの人気となり、膳所藩士(ぜぜはんし)黒田光良に器を作らせ、己(おの)れが歌を釘彫りする共同作業になったという。それ以前にも、蓮月の身の回りの世話をしていた者がいる。蓮月が隣りに越して縁となった富岡鉄斎である。鉄斎の絵描きの初めには、蓮月の和歌に鉄斎が画を描き添えていたのである。評判の蓮月焼はよく売れ、売れた分はそのまま蓮月の収入となった。その金にまつわる挿話がある。一つ、嘉永三年(1850)の飢饉に、三十両を奉行所に寄付した。一つ、鴨川の丸太町橋を私費で架けた。一つ、手間賃を払って仕立てた古着を、頭巾を被った蓮月が貧しい家々の玄関に投げ込んで逃げ帰った。あるいは、明治八年、この年の十二月に蓮月は亡くなるが、八月十八日の「東京曙新聞」に載った蓮月の記事。「昨十七日の読売新聞に西京の蓮月尼の宅へ近頃泥坊の這入(はい)った事が書いてありますがこの尼さんの風流好きで歌が上手のうえに、手作の瀬戸細工に名の高い技は新聞にある通り、皆さん御承知の事でございますが、西京の人から本社へ知らせてきました所は少々事実が違っています。どちらがうそかほんとうかその段においては分りませんが、皆さん御見合せのための知らせのままにかき載せます。さてその泥坊が尼さんに金を貸してくれよというに、少しも騒がず、手箪笥(てだんす)の中から一包の金(百円包のよし)を取り出し与えますと、泥坊はこれほどまでとは思いもよらず肝(きも)をつぶした様子なりしが、なんとも大胆に今度は腹がすいたから茶漬の御馳走になりたいといい出したので、わたしはひとり暮しだから余分の御膳は炊(た)きませんと、食い残りの御鉢をやると、泥坊たちまち食い尽して、これでは少し足らない、なんぞ外(ほか)に食いものがありませんかと不足をいうにぞ、昨日とか今日とか貰(もら)いし麦粉菓子を出しましたれば、泥坊は食い掛けながら気絶してどっさりその場に倒れたれば、尼さんはこれにびっくりしてうろつき廻り介抱するうち、近所の人も寄集りしに、泥坊は早死に切ってありました。この一件で麦粉菓子の由来を御上からお調べになりました所が、尼さんに金三百円借りている人よりの進物なることが分かりました。泥坊もこわいけれども、毒殺はまた一層こわいではございませんか、あまり奇妙なことゆえ御知(しら)せ申すというてよこした。」(「蓮月焼」服部之総(はっとりしそう)『黒船前後・志士と経済 他十六篇』岩波文庫1981年刊)この記事引用の著者服部之総は、「この記事の調子には、風流できこえている老蓮月尼を、単に金をためているという一事だけで、三面記事的にあばこうとする人情が見える。」と加え書いている。杉本秀太郎の襟を正した行儀のいい評伝『太田垣蓮月』には、このエピソードは出てこない。蓮月に、盗人のいりたるをり、と題した歌がある。白浪のあとはなけれど岡崎のよせきし音はなほ残りけり。「白浪」は、歌舞伎「白浪五人男」の盗賊を、「岡崎」は、もと住んでいた場所であるが、「よせきし音」は、事件の余韻のことかもしれぬが、分からない。富岡鉄斎宛の、蓮月のこのような手紙がある。「この村なども、冬中はどうかたべつづき申べく、春は何もなくなり候よし、みなみななげき居候。何分此年米不出来にて、値だん高ければむづかしく、多分子供多く、としより多く、わるい折には皆ゝ難儀ぞろひにて、毎日いろいろなことのみきゝ候て、ちからの及び丈はいたし居候へども、やくだつほどの事出来不申、一とうの事と存参らせ候。さりともしばゐ顔見せ大入のよし、民蔵と申もの二十日切三百両きふ金のよし、もとこのものかるわざ師ゆゑ、身は軽く候はんなれど、何分にも七十余老人なり、七化に、ちうにつり上のげいをいたし候よし。世渡りもいろいろ。この村近所、盗人のみ多く、全く難儀ゆゑの事と存、きのどくに存候………世渡りは川渡りと同ぜん、ふち瀬もあれば、又あさせも御ざ候、御心長く御世話被遊、御門人方も、おひおひ御出来、御出世のじせつ………」(「太田垣蓮月・消息」『近代浪漫派文庫2富岡鉄斎・太田垣蓮月』新学社2007年刊)七十余歳の老人の私、蓮月に、民蔵という輩(やから)が二十日を期限に三百両を貸してくれと、芝居がかったもの云いをしたことを、さながら大入りの顔見世興行のようだったと、蓮月は書き送っている。この出来事が、泥坊記事の元になったものであるかどうかは不明である、が、蓮月に、金貸しの顔はあったのである。「白浪のあとは」の歌が載る歌集「拾遺集」の、この歌の前に、人の妻にかはりて、かへりごとかきつかはすおくに、のことわり書きがある、つねならぬよはのこがらしふきしより乳房さむけき夢のみぞみる、の歌がある。人によって伝え記された、あるいは調べ上げられた蓮月についての事柄は、なるほど悲運不幸者であり、それを撥(は)ね退(の)け自立した歌人・陶芸作家として成功した者であり、社会にも目を配った者であるということが出来る。蓮月の和歌もその手紙も、そうであろう人が詠むような才能があり、時に知恵を効かせた歌であり、そうであろう人が書くような情愛の文面である。が、この、つねならぬよは(夜半)のこがらしふきしより乳房さむけき夢のみぞみる、には蓮月の生々しい声が残っている。外面(そとづら)のいいよそ行きの言葉ではなく、只一度の吐いた本音の淋しい声として。大正十年(1921)に改修したという、西賀茂神光院にある蓮月が住んだ茶所(ちゃじょ)、参拝者に茶を出した場所は、柱の細い二間だけの粗末な建物である。夜は東を流れる、賀茂川の流れが聞こえたという。蓮月の墓は、神光院を西に行った山裾の小谷(おだに)墓地にある。墓は名の通り、谷になった山肌に建ち、どの墓へ参るのにも石段を上る、村外れの古い墓地である。石の案内のある蓮月の墓までは、狭い石段を二つである。桜の老木の根方に建つ蓮月の墓は、大振りの漬物石のように、驚くほど小さい。墓の字は、富岡鉄斎である。この墓は、蓮月を小さくつましく見せようとする意図があるのかもしれない。たとえ生前本人がそう望んでいたとしても、この西瓜の種(たね)のような墓は、どこか出来すぎの、作りものめいたものに思えるのである。が、この蓮月の墓の前に立った者は、誰もその小ささに、思わずも膝を屈するに違いない。
「たしかに日に焼かれ、雨に打たれるつらい日もあったが、野に一斉に花が咲き、普請場の川土堤に腰をおろして休んでいると、対岸の雑木林からうつくしい鳥の声が聞こえて来るときもあった。そういう季節には、孫六は会所勤めのころには知らなかった快い解放感に浸ることが出来た。そして年月が経つ間に、孫六も少しは楽をすることをおぼえ、普請組勤めに馴れた。組の人間になったと言ってもよい。」(「浦島」藤沢周平『文藝春秋短篇小説館』文藝春秋社1991年)
「分かりやすく「情報発信」 楢葉で廃炉・汚染水対策福島評議会」(平成29年5月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)